ぐ、と体を持ち上げて、ぐ、と腕を伸ばす。
のいない寝起きが続くこと、3日。
そう、3日。私はそんなにも長い時間をこの場所で過ごしていた。
特にやることもなく、ただクロロの隣に座って過ごす日々。
クロロは読書に勤しんでいるし、フィンクスはどこかへ出かけて行った。
正直コイツと2人きりってのは辛いんだとか、無言の間が重いんだとか、思っていた。最初は。
だが私は無口がデフォルトだし、クロロも寡黙がデフォだ。
本を読んでいる間は特に。何も喋らなければ何にも反応しない。
私の方が心配してしまうほどに、食事も忘れて一心に本を読んでいる。
ただ呆けて、たまに気が向いたら何もない外に出て(もちろんクロロの気が届く範囲までしか行かせてくれないが)。
ナイフの刀身を眺めてみたり、握り方を研究してみたり、鞘からの抜き差しを練習してみたり。
そんなことを3日間も繰り返していれば、この空気にも慣れるというものだ。
そして飽きてくる。存分に飽きてくる。もうお腹一杯だと愚痴を零すほどには飽きてきた。

しかし、だからと言って、別に変化を望んだ訳じゃないんだ。
撤回しよう。飽きただなんて、これっぽちも思っちゃいない。
思ったとしてもちょっとした気の迷いなんだ。ほら、あれだ。出来心とか、そんな感じの。
誠心誠意こめてそんな贅沢な考えに至ったことを謝ろう。
だから、この、こいつを、どこかへ吹っ飛ばしてくれないだろうか。





ミスマッチ36





「や、

輝ける笑顔と爽やかすぎる挨拶を目前に晒された際、人はどのような表情をするのだろう。
同じような笑顔で挨拶を返す?
頬を桜色に染めながらもじもじとする?
穏やかな表情で旧知の仲を周りに知らしめる?
そのどれかかも知れないし、そのどれでもないかも知れないが。
少なくとも私のように奥歯を力強く噛みしめて、ギシ、なんて音はさせないだろう。
もしも私の感情がすぐに表へ出ていたのなら、それはそれは露骨で歪んだ顔が拝めた筈だ。
今なら出血大サービスで舌打ちも付けてやろう。

現れたのは、いつぞやに撒けたと思っていたシャルナーク。
ああ、畜生、どうしてここにいるんだ。
いやシャルナークではなくて私が。何を今更と鼻で笑われそうだが、これは深刻な問題だ。
ああ、畜生、どうして私はここにいるんだ。帰りたい。今すぐ帰りたい。
元の世界へはそう簡単に帰れないだろうことは分かっているが。
もうこの際居候をしているカレンの家だっていい。また転がりこんでヒモのように暮らしたい。
カレンだって毎日相手にしてやるさ。ばかりでなくたまには私も相手になってやるさ。
だから、もう帰らせてくれ。


「相変わらず表情変わらないね、は」

さよか。だから何だと。
…駄目だ。無意識に喧嘩腰になってしまう。
コイツの笑顔は本当に、ただの笑顔に見える。とても楽しそうな。
実際楽しいんだろうが、だからこそ、その腹の内を知っている私にとってその笑顔は警戒の対象でしかないのだ。
クロロの笑顔は邪悪。フィンクスの笑顔はただ気持ち悪い。シャルナークの笑顔は偽善的。
まだ邪悪な方がマシだ。
悪いことを考えているのを隠そうとしない分だけ、余計な詮索はしなくてすむ。
でもシャルナークの笑顔は、なんだかな。無駄に警戒心を抱かせるというか、なんというか。
ずるずると服を引き摺って。フェイタンの時と同じような場所に座る。
が、シャルナークは私のこの露骨な避け方をまったく意に介していないようだ。
絶対気付いてる。気付いててこんな風に目の前へしゃがみ込むのだ。
うわぁ、ほらその笑顔。目が全然笑ってない。

「ね、ちょっとさ、これ」

にっこにこしながら手渡されたのは、1枚の写真。
なんだ、なんだその笑顔は。フィンクスに勝るとも劣らない気持ち悪さだ。
視線から逃れるように写真を受け取り見てみると、どうやら庭先で撮られた家族の集合写真のようだった。
どこかの一家の写真。どこにでもある一家の写真。どこかに存在した一家の写真。
父と思われる口髭を生やした男性、母と思われる綺麗な黒髪を持った女性、息子と思われるピースをしている男の子。
ペットと思われる黒い、犬。
そして。

……そして、私と寸分変わらぬ姿を成している、女の子。

背丈も髪型も、顔も。
しかし決定的な違いはその無邪気な笑顔。
兄と思われる男の子と手をつないで、同じようにピースをして。
見ている者の心を穏やかにさせるような、とても幸福そうな。
思わず頭を撫でてしまうような、無意識にその子の幸せを願ってしまうような。

ずきり。
ずきりずきり。
ずきりずきりずきん。
頭と心臓が痛む。喉が締め付けられたように苦しい。
目の奥が熱を持ち、鼻の奥がつんとする。
何かが訴えている。何かが誰かが訴えている。
悲痛な叫びが内側を支配して、血流より速く全身を駆け巡った。

…だけど、それだけ。それだけだった。
涙は出てこないし頭は冷静。写真を見ても仲の良さそうな家族だとしか思えない。
自分の身体に湧き起こった変化に戸惑うことはあれど、泣きたいだなんて思わない。
身体と感情と心の決別。言うなればそんなような。

しかし、それでも。この写真に写っている少女は。…少女は。

シャルナークに視線をやると、笑顔はそのままに、射抜くような視線。
相手の心意を探るような視線。相手の隙を狙うような視線。
幻影旅団の指揮官を努める者の視線。

写真をどこで入手したのか知らないが、これが私だと言いたいのだろう。
この、無邪気に幸せそうに笑っている少女を。

だが知らない。
私はここに写っている人物の誰ひとりとして、知らない。



「宝石鑑定士、アゼルド」

射抜くような視線のまま、シャルナークがぽつりと呟いた。

「その業界では割と有名な目利きで、念能力者だった」

"だった"。過去形か。

「主に堅気を相手に商売していたから、あまり裏事情には関わらなかったし、そこまで有名でもなかった」
だけど、とシャルナークは続ける。
「宝石業界でその名を轟かせた件がある」

それがアレだよと。
アジトの隅に放置されていた私の鞄を指さした。
正確には、そこに付けられていたクマのアクセサリー。
恐らく――ほとんど確信に近いけれど――三次試験官が取り付けた、それ。

「ねえ、クマの目をよく見たことがある?」

意識をクマからシャルナークに戻す。
思い出すのは病室でのこと。
クマの目は黄とも緑ともつかない不思議な色だった。
たしか、黄緑でいいやと投げた筈。

「あれはね、カメレオンダイヤモンド。とても珍しい、色の変わる宝石だよ」

平常時はオリーブグリーン。
加熱すれば一時的にオレンジイエロー。
温度や明暗によってその姿を緩やかに変化させる宝石。
その特性から名付けられたのが"カメレオン"。

「なぜ色が変化するのか。まだ全部解明されていない」

いくらか穏やかになったシャルナークの視線の先、クマもじっとこちらを見ていた。
三次試験官が持っていた、アクセサリー。

「そしてその希少なカメレオンダイヤの特性を発見したのが、アゼルドだ」

続けたのはクロロ。
本を完全に閉じて、面白そうに私を見下ろしている。
コイツら揃いも揃って性質が悪い。

「そ。でもその特性を彼の知り合いが、また別の知り合いに教えちゃってね」

やれやれと肩を竦める。

「手柄は取られちゃった訳だ。でもま、それは表向きの手柄だけだけど」

曰く、横取りした相手はあまりにも宝石に関する知識が乏しかったのだと。

「発見しのはアゼルドだと、裏では有名だった」
「…だがそいつは名誉に拘らない奴らしくてな。訴えることもなかったそうだ」
「そういうこと。けれどそれからアゼルドはカメレオンダイヤを中心に鑑定していったんだよ」

よいしょ、なんて爺臭い掛け声とともにシャルナークは立ち上がり、クマのアクセサリーを持ってきた。
ぽんと私の手に置かれる。

「カメレオンダイヤはあまり出回ってない希少品。それを持ってるだけでもすごいのに」

きらり。どこまでも透明で透き通った、薄いイエローが光る。

「そこまで純度の高い物はそうそうないよ。不純物も泡も傷もない」

ちょっと大袈裟なんじゃないかと思うほど、シャルナークは称賛する。
宝石になんて興味があったのか。いや、ただ知識が豊富なだけかもしれないが。
しかしそう言われても私にはその凄さが分からないのだから報われない。
宝石だと言えば納得してしまうほど綺麗ではあるが、そんな泡とか言われてもよく解らない。

がそれをどこで手に入れたのか知らないけど、十中八九、あの試験官だろ?」

三次試験の試験官。
十中八九、なんて言っているけどその目は確信している。
それは何故か。
写真を見せられた時に、なんとなくそんな気はしていたんだ。
無表情、というか仏頂面でピースを突き出している少年。
少女と強く手を握っている少年は、成長したらきっと三次試験官のような青年になる。
そしてその読みは間違っていないのだろう、シャルナークの口振りからすると。

「まったく参るよね。ハンター専用サイトでさえの情報が欠片も出てこないんだもの」

探したのか。
何の目的があっての行動か知らないが、ご苦労なことだ。
同姓同名の奴でもいない限りそんな情報は皆無なのだから。

「でだ。三次試験官がにちょっと執着してるぽかったからね。ちょっと調べてみたんだよ」

幸いなことに三次試験官の情報はすぐに出てきたそうだ。
そして試験官経由でこの写真、そして私へと辿りついた。
いやでもそんなことを言われても私にはこんな写真、見覚えなんてないんだが。
あっても困る。私は前の世界で生きてきた。
それは間違いない。間違えようのない事実だ。

ならこの少女は誰なのか。
写真に写りかつて無邪気に笑って生きていたこの少女はどこの誰なのか。

、君の本名は…イリア、だね。アゼルドの娘。試験官の、妹」
「………」

沈黙。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
…本名? イリア?
誰だそれは。そんな外国人じみた名前なんて私は知らない。
ゆらりと揺れた目を、もう一度写真へと落とす。
笑顔を振りまく少女……イリア。

「覚え、ない? それとも唯とぼけてるだけ? ねぇ――

うっそりと笑む。
ああ、なんて、嫌な笑顔。
腹黒いとかそんなんじゃない。罠へ誘い込むとか、そんなんじゃない。
罠へ強引に引き摺りこむ顔だ。なんて性質の悪い。本当に、性質が悪い。
それでも尚沈黙を貫き通し、無表情のまま視線を合わせていると、まあいいやといつもの笑顔に戻った。
いつもの、あの嘘くさい笑顔だ。

「もうちょっと昔話をしようか」

そう前置きをして、更に喋り続ける。
饒舌というのかなんというのか。疲れないんだろうか。

が何故"そのまま"の姿なのか。"その時"に何が起きていたのか」

そのまま。つまり、この写真の姿のまま。
少年が三次試験官なのだとしたら、やはりこれは10年以上前に撮られた写真のはずだ。
それなのに、私は当時の姿のまま。
いやそもそも私はここに写っている奴と別人だという可能性があるんだが。
ああそういえばよく見てみるとこの黒い犬もに非常によく似ているな、なんて。現実逃避。

「時期はその写真を撮った直後だね」

シャルナークが写真を覗きこむ。
幸福そうな家族に影がさした。


「アゼルド家は賊の襲撃に遭い、その生涯を閉ざした」







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