床に下ろされた瞬間、脱兎の如く廃墟の隅へと私は走った。
後ろからまた声を掛けられるか、もしくは捕まるだろうかと懸念したがしかし、
出口とは別の方向に走っているのに気がついたのか、咎められることはなかった。
もう逃げる気がないことを知らせるように出口から一番遠い角へ行き、壁に身を張り付けるようにそこへ座る。
できるだけ体を縮みこませて、蹲る自縛霊のように目だけで睨み続けると、フィンクスが居心地悪そうに声を上げた。

「だから、悪かったって言ってんだろ!」

甘いな。そんなことで許すわけがないだろう。



ミスマッチ32



ずっと握りしめている人形を点検する。
その間もフィンクスへの警戒は怠らない。警戒しても無駄だとかそんな声は私の耳には届かない。
糸がほつれてボロボロだ。更には足が取れかけていた。白い綿が少しはみ出している。
どうやら傷が深いと人形サイズでもその影響が出るらしい。初めて知ったが、かなりショックだ。
これはの傷が癒えれば自然と直るんだろうか。
傷と連動しているのであれば直る可能性が高いが、どうにもこの解れが自然と直るとは思えない。
生物ではない人形の足が自然とくっ付いていったら、それはそれである意味恐怖体験だ。
そう考えると、自然治癒はあまり期待できない。そして逆の可能性が出てくる。
この人形の傷を直さないと、の傷も完全には治らない。その可能性。
絶対に有り得ない、とは言い切れない。
言い切れないが、私はもともと念に関しては疎い。纏だって無自覚だ。
無知である私が、念に対して絶対、なんて言葉は使えない。確証がなさすぎる。
旅団に聞けば早いだろうが、喋ることができない。
唯一喋ることのできるフィンクスはをこんな目に合わせた張本人。
聞き辛過ぎる。というか聞けるわけがない。
それに聞いたところで明確な答えが返ってくる可能性は低いだろう。
念能力なんてものは個々の特徴が色濃く出るもののはずだ。
姿形や能力、誓約や条件なんてものは人それぞれでそれこそ十人十色。
に関しても例外ではないだろう。

でもな。
自分でずっとあれこれ考えて様子を見ていても埒が明かない。
それだったら今この瞬間のチャンスを活かしてフィンクスに聞いてみるべきだろうか。
強化系は単純一途。物事を頭で考えるよりも、感情に任せることが多い。つまり感覚人間だ。
念だって感覚で扱っているかもしれない。原作でいうとゴンなんかが良い事例だ。
それを言えばウボォーギンだってそうだ。そういう流れでくるとフィンクスだってそうだ。
そんな奴に念のあれこれを聞いても曖昧な答えしか返ってきそうにない。
「なんか、こう、すごいんだよ」100年に一度の奇跡を見てもそれくらいしか言わなそうな。

だがそれでいたって私よりは詳しいはずだと、思考は同じ道をぐるぐる回ってる。
私だって抽象的な考えは良くするし、表情にはあまり出ずとも感情に流されることは多々ある。
事実こうしてが人形になってしまったのは私の頭に血が昇り、その衝動に身を任せたからだ。
このまま待ち続けてが治らなかったらどうする。
フィンクスに聞くチャンスを逃し、なおかつ私は無防備なまま過ごすことになる。
それはだめだ。ナイフ一本あっただけでは何からも身を守れない。それを私が持つならなおさら。
の牙だって十分恐ろしいが、天秤にかければどちらに傾くかは考えずともわかる。
それだったら当たって砕けろ、理不尽に殺されるならに食われた方がマシだと半分本気半分冗談で思い、
視線の先で暇そうに瓦礫へ寄りかかっているフィンクスを見遣った。
(いやそれよりもに食われるなんてそれこそ悪い冗談だ)
あのデカい口に噛み砕かれる自分を想像し身震いしながら、突然脱線した思考を戻すように私は腰を上げる。
目指すは蹴りたい背中だ。




「糸?」
「ほつれた。誰かが容赦ないから」
「…お前意外と根に持つタイプだろ」

じと目で睨まれたってもう怖くない。そこにさっきの威圧感はなかった。
フィンクスは人形サイズになったを持ち上げると、プラプラしている足を動かして確認する。
あ、引っ張るな。

「…取れる」

制止しようとジャージの袖口を掴んだが、「取れやしねぇよ」の一言で片づけられる。
粗野な言葉とは裏腹に、存外気をつけて扱っているらしく、言葉通り取れることはなかった。
でもひやひやする。
フィンクスは首の骨を素手でポキポキ折るのだ。その馬鹿力は侮れない。
いつ「あ、」とか言ってポロっとやるかわかったもんじゃない。

「犬が怪我するとこっちにも影響するってか」
だ」
「知ってるっつの」

知ってるなら名前で呼べ。
私がもう一度同じ言葉を繰り返すと、気のない返事が返ってくる。

「わあぁったよ、はいはい。、だろ」

こくりとひとつ頷く。

「つまりだ。お前が言いたいのは、このの怪我が自然に治るかってことだろ」
「媒体での怪我は初めて見る」
「つってもなぁ…俺にはわかんねぇよ。団長あたりに聞いたらいいんじゃねえか?」

それが出来ないから、今、ここで、フィンクスに、聞いているんだろう。
そういう思いを込めてじっと見上げていると奇跡的にも伝わったのか、あぁ、と小さく納得した。

「治るかどうかわかんねぇなら、とりあえず直しときゃいいじゃねえか」

さも投げやりな答え。
私が葛藤してまでフィンクスに聞いたのにこの野郎。もう少し真剣に考えてくれてもいいじゃないか。

そうは思うものの。
やっぱり念能力というものは人それぞれだ。
そりゃフィンクスだって考えても答えが出ないだろう。
考えてみると、フィンクスの答えが至極妥当な結論だ。
妥当だが。私には裁縫の技術などない。皆無だ。絶望的である。
針を持って縫おうものなら翌日の指はみな絆創膏の下で療養していることだろう。
私にそんな器用なことは求めてはいけない。リンゴの皮だって薄く剥けないのに。
ほれ、とフィンクスからを返してもらっても、結局は解決しなかった。
もしかしてフィンクスは裁縫できるだろうかと、期待の眼差しで見上げてみるが、その眉なしの顔を見た瞬間
私の考えは角砂糖10個入れたドロッドロのコーヒーよりも甘かったと思いなおした。
もしこれで意外にも手先が器用なフィンクスであったなら、崖上でも頑なに口を割らない火スペの犯人よりも奇想天外である。
天変地異が起こりうる事態だ。明日は雨かな、なんて生易しいこと言ってられる状況じゃなくなるのは必須だ。

「…なんか今すげぇお前のこと殴りたくなった」

さすがは感覚人間。そんなことばかり敏感だな。
そんなに神経が鋭いなら、私のこの気持ちだって分かってほしい。なんて都合の良い神経だ。

とりあえず悩みの根本解決はしなかったと。
提案も脆く崩れ去り、さてどうしようと頭を傾ける。
このまま待って様子を見るか、自分の血と指を犠牲にして縫ってみるか。
の足が取れないように加減して弄りながら、悶々と考える。
メリットデメリット、リスクリターン、言わば自分Aと自分Bの戦い。いやさすがにそれは大げさだけど。

いつまでも人形を手のうちで弄んでいたのを訝しんだのか、フィンクスが嬉しい、でもまた新たに頭を悩ませる案を出した。

「マチにでも頼んでみたらどうだ」

あいつ裁縫超早ぇぞ、なんて。
確かに、マチは裁縫が早い。早かったはず。念能力だって針と糸に関係しているし。
それは今の今まで忘れていた事柄で、妙案だった。
けれども頼めるわけがないだろう。
さっきあんな射殺さんばかりの視線を突き付けられて、いきなり人形を差し出せなんて。
の足が縫いつけられる前に私の両目が縫いつけられてしまうじゃないか。
危険だ。危険すぎる。

「…フィンクス、はその時どうしてくれる」
「どう?」
「口添え」
「…あぁ」

フィンクスと旅団メンバーの間にどれ程の信頼関係が築かれているのかきっちりとした判断はできないが、
それでも私が単身で人形を持っていくよりもまだ安全なはずだ。たぶん。
ここでたぶんとしか言えない所がまた悲しいよなと、隣に座る体格の良い単純一途を見遣る。
だがこんな性格で、単純であるが故に嘘はつけない、嘘をついてもすぐにばれるような奴だからこそ
寄せられる信頼というものが存在する。
もうここでは芽生えているかいまいち怪しい信頼に頼るしかないだろう。

ちょっと長い沈黙の後、ぼそりとフィンクスは「いいぜ」と言った。
私の話をまったく聞かなかった経緯もあるもんだから、すんなり了承したことに違和感を覚える。
ここでまた突き返されても困るわけだが、あまりにも素直だと逆に怖い。怖いというよりも気持ち悪い。
裏でもあるんじゃないかと疑ってしまうが、そこにあるのはちょっと不機嫌な顔だ。
ちょっと不機嫌、だけでも視線だけでライオンを支配下に置くような迫力がある。
ならばなぜそれに対して恐怖を覚えずこのようにダラダラ考えているかと言うと、その顔には照れ隠しも見えたからだ。

「そいつが、その…がそんなになったのは一応、俺の責任でもあるワケだしな」

肩担ぐくらいならいいぜ、と。
いやまあがこんなになったのは確かにフィンクスの所為だが、それは「一理ある」で済まされても良いくらいの責任だ。
フィンクスからしてみれば、元はと言えば逃げようとした私が全面的に悪いのだと考えてもおかしくない状況なのに。
というか絶対最初はそう思っていたはずだ。そうでなければあんなに殺気は出さなかっただろう。
ならなぜ今更になってそんな。
を傷付けたことをそんなに気にしているのだろうか。幻影旅団上位の戦闘狂が? 有り得ない。
だがフィンクスの顔を見る限りでは何かやましいことを考えているようには見えないし、そもそも裏があるなら
悪人顔でにやりと笑ってきそうだ。コイツ絶対Sだろうし。
それがないというのなら、信じてみてもいいのだろうか。コイツの協力を。
その協力とやらがどれ程役に立つかは分からないが、ないよりはマシなはずだ。
だったら。

「……………頼む」
「…おいなんでその一言言うのにそんな時間かかんだよ」

額に青筋が走った。




がいないおかげで寒い夜を過ごすこと数時間。
珍しくも気を利かせたフィンクスに借りた上着を抱え込む勢いで羽織ってみたが所詮はジャージ。
風通しがすこぶるよろしく、何の足しにもならなかった。でもフィンクスの"協力"同様、ないよりマシ。
そのまま着続けている。ちなみにフィンクスは半袖だ。化け物め。
私には微塵もわからない気配をフィンクスは察したようで、戻ってきたぞと小さく呟いた。
今の今まで旅団の仕事に付いていけなかったことを半ば忘れていたくせに、いざ当事者が戻ってくると
その憤慨はくすぶる火のように腹の底を舐めているようで、みるみる内に機嫌が悪くなった。
さっき約束した口添えのことを憶えているのだろうか少々不安になってくる。
いや憶えていてもそれを果たせるのだろうか、深くなる眉間の皺が更に私の不安を煽る。
不意に入口に影がさした。ついに私はその存在を最後の最後まで察することはできなかったようだ。
ぞろぞろと、それでいて幽霊のように足音も未だ気配もなく入ってくるのは見間違いようもない、幻影旅団一行だ。



「…何やってんだ

クロロが開口一番そう言った。
何のことだと疑問に思ったが、そうか私は今フィンクスのジャージに包まれている。
今は膝を抱えているが、おそらく立ち上がったとしてもジャージの裾は地面につくだろう。
更には裾に腕を通していないのでダルマ状態である。
その姿を想像していたら、なんだか情けなくなった。まるで間抜けだ。
でも仕方ないだろう。寒いんだから。このままでは凍死してしまうと思ったのだ。
こんな風通しの良いジャージであっても多少は暖かい。
寒さを感じないような化け物と違って私は一般的な人間なのだ。そこのところを忘れないでもらいたい。
そういった長い言い訳を含めてじっとクロロの目を見ていたが、理解したのかしていないのか。
ふいと逸らされてその興味は盗品へと移ったようだった。あぁ寒い。


今私の目の前に並べられているのはやっぱり盗品なのだろうか。
どれもこれも高いのかそうではないのか不明な美術品ばかりである。
やれ有名な画家が自身の血を使用して描いた女の画だの、やれ精神を犯した死刑囚の描いた自画像だの。
一体どこの根暗な屋敷に潜り込んできたのだと問いたい。それともこんなものばかり飾ってある美術館だろうか。
どちらでも良い。どちらでも良いからその手にすると途端害虫に好かれるようになる指環をこちらに向けないでくれ。

直視したくないような戦利品を吟味し、それぞれがそれぞれ好きなように品を持ち去る。
クロロが狙っていたものは元々手に入れていたのか、誰が何を持っていこうが特に口を出さなかった。
フェイタンはどこかどす黒く錆びついたよくわからない器具を嬉々として持ち去る。
深く考えずともどうせ拷問器具とかそんな物だろうことは容易に想像がついた。良い趣味だ。
クロロとフェイタンは目的を果たしたのかさっさと盗品近くの瓦礫に座り酒を煽っている。
さっきまでの不機嫌はどこへ行ったのやら、フィンクスもそこに混じってさっそく缶のプルトップを押し上げていた。
空気の吹き出す小さな音がし、次いでそれを勢いよく飲む音。
打ち上げの幕開けのようだった。

マチとパクノダはまだ盗品を眺めている。
女性同士で仲が良いのだろう。ときどき笑いながら雑談をしている。


それらのやり取りを座っている場所から見遣り、眺める。

思案するのはマチに接触するタイミングだ。
今はまだ駄目だ、と思う。
ビール瓶をひっくり返しているフィンクスはきっと既に冷静な状態ではないし、
こうもギャラリーがたくさんいてはとてもじゃないが近づく勇気はない。
あぁところでコルトピがいない。帰ったのだろうか。

ダルマ状態のまま瓦礫に座っていると、おもむろにクロロが近づいてきた。
片手にはビール缶。もしかしてそれを飲めとか言うんじゃないだろうな。
やめてくれ、元の体の時からビールは苦くて飲めたもんじゃないというのが私の感想なのだから。
だが手渡されたのは嘘っぽい果物が描かれたオレンジジュースだった。
真っ二つに割られ、みずみずしさを催した絵が缶をぐるりとかこんでいる。果汁100%のようだ。
ひやりと冷えているそれを、腕を出して受け取る。
他に飲む奴がいるとは思えない。私のためにわざわざ持ってきてくれたのだろうか。
じっと缶を見つめ、そしてクロロの顔を見上げると、どう思ったのか私の手のうちにあった缶を一度取り上げ、
プシリと軽い音をたてて飲み口が開けられた。それをまた渡される。
それでもまだ戸惑う私に、クロロはさも意外そうに言ってのけた。

「なんだ、ビールのが良かったのか」

そんなわけがないだろう。子供に何を飲ませようとしているんだコイツは。
小さくかぶりを振って、オレンジジュースに口をつけた。甘くて美味しい。
クロロが去り際、ばさりと何かを私の体に被せていった。
コートだ。いつもクロロが団長として活動する時に着ている、ロングコート。
今までクロロが着ていたおかげか、それはそれは暖かかった。ほっとするほどに。
だが見ているこっちが寒くなるような格好で動くのはどうにかやめてくれないだろうか。
フィンクスといいクロロといい、本当に化け物だ。

だが有難い。
ああ暖かい。
オレンジジュースをまた一口含んだ。



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