びびった。
マジでびびった。
まさか本気で寝て、しかも餓鬼の気配に気付かないだなんて俺はどうかしちまったんだろうか。
心臓が跳ねた嫌な感覚がまだ残っている。



ミスマッチ31



凹む。
餓鬼は絶でもなければ気配を殺してもいない。纏の状態だ。
なんで俺は気付かなかったんだ。そんなに疲れてたか?
…あり得る。旅団の活動中にアジトに居残ってたり、コイツの突拍子もない話に付き合わされたり。
ストレスでも溜まってんのか。
いやいくら疲れてたって気配には気付く。絶をしてようが大抵の奴には気付く。
それくらいの自負は俺にもあった。

それともなんだ。
俺はコイツが近づいてきても気付かないほど警戒もなしに寝てたってことか?
それこそあり得ない。
いくらコイツが子供だからって俺がそんな体たらくなのであれば舌噛んで死んでやる。
でないとこれから先、生き残れないのは目に見えている。

俺が寝ていた床の傍でまだしゃがんでじっとしている餓鬼を見てみるが、相変わらずの無表情。
目からはさっきの必死さが消えて、連れてこられた時のように全てが平坦に戻ってる。

「私だってフィンクスのいびきで起こされたのだから、お相子だ」

なんの話だ。
ああ俺が起こされたから怒ってるとかそんなことでも考えてるんだろうか。
そういうことじゃないんだが、…なんかもういい。いろいろと疲れた。
脱力するように腰を降ろすと、突然俺の横に餓鬼が座り込んできた。その向こうには黒い犬。
突然の体温にぎょっとして咄嗟に身を引きそうになったくらいは驚いた。
コイツ纏をしているくせに気配がない。いや気配がないと言うより、空気に溶け込んでる感じか。

「なんだよ」
「…用事はない」

は?
さっきから何なんだコイツは。
前をじっと見据えたまま、念の誓約について抑揚のない声で喋りだす。
おいおいそんなもん俺に言っていいのか。そう思っても餓鬼はただ淡々と喋り続ける。
聞くにコイツの声が誓約に関係しているようだ。それが本当のことかどうかは分からないが。
コイツの言う死亡者リストには俺が載ってないことを指摘すると、沈黙が返された。
もともと隠すつもりがないのか、弁解も焦り動揺も表れはしない。
別に自分が死のうが何だろうがどうでもいいが。いやどうでもいいって訳ではないが。
数年後に死にます、なんて言われて、今すぐ感傷に浸れるわけじゃねえ。


その後のやり取りで、なんでコイツが俺に話しかけてきたのかがようやく見えてきた。
つまりだ。コイツは念能力の発動条件である制約をクリアするために、俺に協力をしろってんだろう。
俺たち蜘蛛だからこそ難しい条件。こっちが警戒するような所業。
それを達成するために、俺はコイツに目を付けられた。そんなところだ。


「その能力、詳しく聞かせてくれんならお前の話、考えないこともないぜぇ?」

面白れえ。
さっきから具体的なことは言わないが、俺に協力して欲しいってんならその能力明かしてもらおうじゃねぇか。
コイツは俺の念能力を知ってる。俺はコイツの念能力を知らない。フェアじゃねぇ。
そんなものに拘りはないが、今までずっと会話の主導権はコイツが握ってたんだ。
云わば憂さ晴らし。
本当に答えるのかどうか見物だな。
そう思って返事を待ってたんだが、コイツはピタリと何も喋らなくなった。
頭の活動が停止視点じゃねえのかと思うほど静かに目の前の空間を見つめる横顔は人形のようだ。
生きてんのか確認しようと軽口を仕掛けたら、それは返ってきた。
こんのクソ餓鬼調子に乗りやがって。
また無言を貫き通す餓鬼にまたもや疲れてきて、もういい寝よう、とこの話を切り上げようとした時だ。
突如隣に控えていた犬の背に乗って、入り口へと駆け出したのは。







牙を、向けたな。



餓鬼が犬の名前を呼び、それは更にデカくなった。大型犬なんて可愛い響きの生物ではない。
同時に流れてくる子供の殺気。今までよりも、明らかに強い。
強いが、それは比較対照が一般人であるならばの話だ。俺にとっては気の抜けたビールにしか思えない。更には温い。
鋭い牙を見せつけるように唸る犬は今にも飛びかかろうかと姿勢が低く。
黒い毛に覆われながらも、より際立つ深く濃い目が俺を睨みつけていた。
そしてそれは隣にいる餓鬼の目も同じく。渦を巻くような黒い目に、ときおり鋭い光が宿り、揺れる。
今コイツの目に宿っている光は一層黒く、暗い空洞の溝を覗いていた時のような引力があったが、そんな睨み俺には効かない。
クソが。なんで団長はこんな子供を連れてきたんだ。
コイツの話す内容が常識を逸脱していたからか。もしくは特殊な雰囲気に興味でも持ったか。
それとも。それともコイツはとてつもなく強いとでもいうのだろうか。
団長が思わずアジトに連れてきたくなるほどの実力を持つとでも。

…それなら。

それなら、それでも、別にいい。
今日暴れられなかった鬱憤を、ここで晴らしてやるだけだ。
つまり殺さなければ良いんだ。
見たところ武器は持っていないようだし、おそらく攻撃を仕掛けてくるのは犬の方。
だったら遠慮することはない。
ここで逃げられるくらいなら、手足の一本でも折ってしまえばいい。
指の骨をバキリと鳴らし、溢れる餓鬼の殺気に、自分のそれを乗せた。



相手の痺れが途切れる寸前まで。
飛びかかろうとする一瞬を待つ。
前足の爪が地面を引っ掻き、後ろ足へ徐々に力が込められる。
尻尾はバランスを保つかのように揺れ、息遣いは荒いが規則正しい。
動物特有のしなやかさを生かして飛びかかろうとする、その一瞬。
…来る。そう思うと同時にわざと地面を擦り、ジャリ、と音を立てて相手を誘う。幸運にもそれに乗る強風の音。
それらに触発されて瞬間飛び込んでくる黒い影。その速さは先ほど逃げようとした時とは比べ物にならないほどの。
気付くと目前に迫る牙。膝を曲げ半身を捻りそれをかわす。
的を外れた巨体はしかし、横切りざまに流れのまま爪を凪いだ。
半身のみしか捻っていなかった身を一回転させ、紙一重。首元にひゅ、と小さな風が触れる。
犬を正面に捉えたと同時に後ろへ飛んで距離をあけた。遅れて埃が舞う。
荒々しく素早く動いていた犬の身は驚くほど静かに地面へと着地し、また隙なく構えた。

再び訪れる静寂。
次はこちらから仕掛けようか。
もう一度攻撃を促して反撃を仕掛けようか。
狙うなら鼻か。腹か。目か。足か。顎か。首か。
それともオーラの供給源であるあの餓鬼を直接狙うか。
餓鬼を直接狙えば十中八九この犬は庇おうとしてくるはずだ。そこを逆に狙うか。

しかしそんなことをしては俺が面白くねぇ。

ただでさえ最高潮に不機嫌なのだ。
暴れには行けない、餓鬼は意味不明なことを言う、更には逃げだそうとまでしやがって。
面倒なことこの上ない。大人しくしていればまだ良いものを。
万が一逃げられなんてしたら後で団長に何言われたかわかったもんじゃない。
コルトピあたりはいつもの通り無関心だろうが、パクやマチは呆れた溜息を洩らした後に哀れだと前面に押し出した目で見てくるだろう。
フェイタンにいたっては絶対俺のことを見下す。あんな餓鬼に逃げられたか、ハン、なんて鼻で笑うに決まっている。
団長はどこまでこの餓鬼に執着してんだか知らねぇが、そうか、の一言で済まされないことぐらい俺にも分かる。
わざわざ見張りを置くくらいだ。まだ逃がす気なんて更々ないんだろう。


その時突然、ゆっくりと餓鬼が動いた。そのまま犬の方へと近づく。
何かを耳打ちしているらしく、犬の耳が動いた。
あの犬は言葉を理解するんだろうか。
単語だけの命令なら分かるだろうが、この状況で待て、だのお手、だのなんてことはないだろう。
もしかしたら噛みつけとかそんな芸を教え込まれているかもしれないが、そんな単発の攻撃では
埒が明かないことくらいこの餓鬼だって分かっているはずだ。
あの犬は念獣。それに関係して言葉を理解するんだろうか。
あり得ない、とは言い切れない。だがいくら念獣といっても万能なわけじゃねえ。
何にしても餓鬼は今何かを企んでいる。伝え終えたのか、また先ほどの位置まで下がった。
逃げる算段でもしていたのだろうが、逃がすわけがない。

先ほどは少し感じたこちらの動きを窺う姿勢も、試す姿勢も綺麗さっぱりなくした犬が、
今度は遠慮なく連続で仕掛けてきた。






動きは良かった。
犬独特のしなやかさが上手く活かされた戦い方だ。
脚力も申し分ない。溜めることなく次の動作へと全て繋げられる。
一つ一つの攻撃も勢いが殺されることなく、重い。
すぐに強いと分かった。餓鬼の念獣だとは到底思えないほどの。
そこら辺にいる念能力者相手でも簡単に勝てるだろう。

…だが、所詮はその程度だ。

自分が強いことは自覚している。コイツら相手でも勝てることは最初から分かっていた。
粉砕されたコンクリートが飛び散り、纏に当たっては更に砕ける。俺はいまだ無傷。
それに比べ、犬の方は。致命傷はないとしても、それなりの数の攻撃は当てている。
動きもいくらか鈍ってきたように思える。
オーラが足りなくなってきたのか、疲れを感じるほど精巧に創り上げられているのか。
どちらにしても、終わりは見えてきていた。
俺としてもコイツと遣りあえて暇つぶし程度にはなったし、胡散晴らしもできた。
そろそろ終わらせよう。

幾分粗くなった動きで突っ込む犬の身をかわし、拳にオーラを集めた。
こちらを振り返った犬の頭を狙おうとした、その瞬間。
背後で餓鬼の気配が揺れた。

止めの一撃に集中し、反応が遅れた。
そして俺の気が一瞬逸れたことも犬には伝わったらしく、ひらりとかわされた。地面にまた一つ穴が空く。

「あ、てめっ…!」

飛び込んでくる犬を無視し、首だけで背後を振り返ると、出口へと駆け出した餓鬼が見えた。








壁を壊して餓鬼の進路を塞ぐ。
圧倒的な力の差。
先ほどの動きが見えていたのかどうかは知らないが、逃げだすタイミングを計っていたのなら、
少しくらいは理解しているはずだ。
だがそんな餓鬼に逃げられた事実に、俺の中で何かが弾ける。
調子に乗りやがって。

「クソガキ、いい加減にしろ」

先ほどの戦闘で昂った状態のまま睨みつけても眉ひとつ動かさない。
それはなんだ。攻撃されないとたかを括っているのか。殺されるはずがないとでも思っているのか。
さっさとアジトの中へ放り込んでやろうと足を進めても、半歩すら引かない。
手が餓鬼の頭に触れる直前、背後の空けた穴からしぶとくも犬が躍り出た。
だが中で重い一発をくれてやった後だ。動きも鈍ければ、なりふり構わぬ単調ぶり。
避ける必要も、踏み込む必要もなかった。戦闘で昂った神経が、身構える反応すらしなかった。
構わず餓鬼を捕まえ、犬を吹き飛ばす。受け身も取ていない姿を見て、終わりを悟った。
さて、これで終わりだ。さっさと中へ入ろう。
そう思った時だ。

「…!!」

今までの無表情と抑揚のない喋り方とは釣りあわないような大声で餓鬼が叫んだ。
小さな腕を思い切り振り、俺の手を払った。そのままこちらを振り返ることなく犬の元へと駆け寄っていく。
まったく強くない、その力。
犬の戦闘力は大したものだ。
だから、餓鬼の方もナリは小さくともそれなりに強いんじゃないのかと。根拠もなくそう思っていた。
団長が連れてきたのはそういった事があるからだと。頭のどこかでそれが事実だと埋め込まれていた。
だが今振り払われた俺の手は、その衝撃に痺れすら感じていない。
恐らく年相応の力。ただの子供の力だった。それはどう過大評価しようとも脅威に成り得ない。
子供が見た目と反するほど強いから、団長は連れてきたんじゃなかったのか。
それとも犬の戦闘力に興味を引かれたか。それは有り得ない。今まで戦っていた自分が証明できる。
あれは強い。強いが蜘蛛が動くほどの相手でもない。
だったら何だ、あの子供は。

いや、それよりも。
念獣を呼んだ時の、あの必死な声。
一瞬だけ見えた表情は、眉を顰め、苦しそうな、泣きそうな顔だった。
そのあまりのギャップに呆気に取られ、力が抜けた。
振り払われたままの手が空中でむなしく浮いている。
物理的な衝撃はなかった。が、もっと内部、頭ン中に銃弾を撃ち込まれたような衝撃は走った。
ギョッと目を見開いて、思わず餓鬼の自由を許してしまうくらいには、自分は混乱した。
混乱して、そして焦った。
焦った。何を焦った?
今までコイツくらいの年齢の餓鬼なんて何人も殺している。最近では眼球も抉っている。
泣きそうな顔をしているくらいでは、なんとも思わない。
…なんとも思わない、はずだった。
それがどうした俺の頭は。
犬の傍で服が汚れるのも構わず地べたに座り込み、血に塗れたそいつを抱きかかえている。
そいつはただの念獣だろう。何をそんなに悲しむ。何がそんなに苦しい。
意図が読めなさ過ぎて、時間がたった今でも頭の中は大混乱中だ。考えるのを放棄した方が賢明だと思えるほどに。

コイツの纏に淀みがなく綺麗で、連れている念獣もそれなりに強くて。
だからコイツも強いのだと勝手に思っていた。何にも揺らがない目と表情も、そう思う材料になっていた。
しかし今俺の前で地面に座っている子供は、そう、子供だった。
形も、大きさも、ただの子供だった。
小さな背中が丸められ、白い煙が体中から立ち昇っている犬を抱き寄せている。
注視するとその手が僅かに震えているのが見える。
ただの念獣だろうが。
軽くそう言えるような存在でないことは、この行動だけで俺にも十分理解できた。

団長が連れてきた子供だからとか、そんなことはもうどうでも良い。
悪いことをした。そんな小さな後悔が俺を責める。
なぜこんなにも罪悪感を感じているのか自分でも不可解だったが、それよりも今は。

巨体も血も消えたのに、そこに座り込み続ける餓鬼に近寄る。
わざと足音を鳴らすが反応すらしない。
さっき表情に変化が生じたのは幻だったんじゃないのかと思えるような、静けさ。
それが無言で責められているようで、少し焦った。なぜ焦った。解らない。
かける言葉が見つからなくて、未だ項垂れている小さな頭に、手を乗せた。
子供の慰め方なんて知らない。あやし方なんてのも知らねえ。
思うまま動く。もともと考えるのは得意じゃない。頭で考えず、自然に動く体に任せる。
真っ黒な髪を混ぜっかえすように撫でて、その身を持ちあげた。
軽い。子供だと再確認する。
少しくらい抵抗するかと思ったが、肩すかしを食らうかのように全くの無抵抗で、素直に掴まってくる。
それでも、その手が小さく震えているのが分かった。表情は見えない。
だがきっと無表情なんだろうと頭のどこかで思う。
無表情で物怖じしない性格。それがアジトの中で感じたコイツの印象。
その時の姿と今の震えている姿が重なり、一層心臓のあたりが苦しくなる。

慣れないながらも謝って、背を叩く。何度も軽く叩いて、頭を撫でた。
徐々に力が抜けていき、震えも収まる。体重をかけてきた身を、落ちないように抱え直す。
重さを感じないような小さな頭が肩口へと埋められ、完全に落ち着いたことを悟る。
震えない手がジャージを強く掴んできたのを感じて、また頭を撫でた。

子供の体温は高い。




30 text 32