白い天井が視界の中心に映る。端には纏められた薄くて白いカーテン。
じっとその白さを見続けているうちに気付いた。
私はいつから起きていたんだっけか。



ミスマッチ23



いつの間にか起きていて、いつの間にか体は軽くなっていた。
腕の傷も、熱くもないし痛くもない。
ただぼんやりとした鈍い頭だけがいつもと違うことを伝えている。
遠くで飛行船特有の稼動音が鳴り響いており、今私がどのような状態なのかはすぐに思い出せた。
しかし周りには人の気配がなく、静かで雰囲気が緩やかだ。
上半身をゆっくり起こすと、額に乗っていた何かがぼとりと落ちた。濡れタオルだ。
それを拾い上げてみても冷たくはなく、ぬるい事から私は随分と眠っていたのだと分かった。
自分の額や首に手を当ててみても未だ熱があるのかどうかがよく分からない。
体温が高い時って自分の手も熱くなるから、自分じゃ判断できないんだよなと考えて、測るのを諦めた。
とりあえず今は何時でどのような状況なのかが知りたい。
誰もいない医務室を見渡していると、ひょっこりと黒い物体が湧き上がった。
だ。
ずっと側に居てくれたようで、尻尾を振りながらこちらを見ている。
頭を撫でてやり大丈夫だと伝える。そのふわふわした毛と温度が私を酷く安心させる。

部屋を見渡してみると、最初に私が運び込まれた医務室ではないことが分かった。
内装はほとんど覚えていないが、確か一番奥の壁側に寝かされていたはずなのだ。
しかし今は真ん中のベッド、その上に寝かされている。
一体ここはどこで、他の受験生はどうなっていて、私はどのような状況下にあるのか。
幸いにも寝起きによくあるふらつきを除けば、体も意識もいたって健康な感じがする。
喉が渇いていたこともあって、試しに水道まで歩いてみたがまったく問題はなかった。
むしろ良く寝たからなのか頭が軽い。さっぱりとしてはいないが、重くもない。

一通り部屋の中を見渡してみたが時計はなく、時計の音も聞こえない。
ゆっくりと扉まで近づき、外の様子を窺うように壁に耳をつけてみる。
何も聞こえない。聞こえてくるのは稼動音との荒い息遣いだけである。
耳元でヘッヘ言っていたに体当たりをかましてから、ゆっくりと音がしないように扉を開けた。
廊下へ滑り出てもやはり誰もいない。
不動に佇むように流れのない空気に溶け込もうと、自然に忍び足になりながら壁伝いに進む。
飛行船というのは同じ形状をしているから仕方ないのだが、軽く曲線が描かれている壁の内伝いを進んでいると、
反対側から誰かが現れたときには既にとても近い位置に立っていることになる。
だが外伝いに歩けばすぐ人に見つかるような気がして、そうもできない。
とりあえずを斜め前に歩かせておきながら、耳や鼻の動きに注意して進んでいく。
何かがあったらこいつを前に差し出そう。


スパイのような不審者のような動きをすること数分、ようやく人の気配がする部屋に行き当たった。
そっと耳を当ててみると、中から足音や何かの音がする。
だが人がいる部屋を見つけたとしても、この後はどうしようか。
いきなり扉を開けて「初めましてこんにちはここはどこですかむしろお前は誰だ」みたいなこと聞ける訳がない。
そんなこと聞いた日には私の頭が吹っ飛ぶかもしれない。
何しろここはハンター試験の関係者が居座る飛行船なのである。
ちょっと無礼を働けば切腹だの自害だの殺されても仕方ないだのと言われそうだ。
例えそれが被害妄想だと片付けられようが当の被害者にとっては仕方ないでは済まされないことだし、
実際に絶対起こりえない事柄だとも言い切ることは出来ない。
つまりそういった誇張意識があるが故に人の部屋へいきなり踏み入ることは出来ないということである。

うだうだそこまで考えて結論を出すと、どこか他を当たろうかと今来た道とまだ続く道を見比べた。
と言ってもがいる訳だし、何かあったら対処してくれるだろうという楽観的な考えがまだ続く道の奥へと誘い、
それに従おうと足をまた一歩ふみだした時だ。
扉が前触れもなく開かれたのは。




「紅茶とかそんな優雅なものないから、水でいい?」

そう聞きながらさも当然の如くコップに水道水をいれているヤチの後姿を見つめる。
私は声も出していないし頷いてもいないのだが、そんなことはこの青年にとって取るに足らないことのようだ。
はい、とお情け程度に氷が入れられた水を目の前に置かれる。
ひとくちも口をつけないといのは失礼に当たるようなので、とりあえず飲む。冷たい温度が気持ちよかった。
ところでなぜ誰もいないのだろうかということを紙に書いて渡してみる。
私が喋らないことに不審気な目を向けたが、そこは今時の若者風情。
すぐに興味を失くしたように渡された紙へと視線を落とした。

「あー…他の受験生は今ハンター試験中だよ」

ついでにこの飛行船は試験用の飛行船じゃない、と半目で面倒そうにヤチは言った。
え、じゃあこれはどこに向かっているのだ。一応試験官のヤチがいるのだから誘拐という訳ではないだろう。
今はどんな状況なのか。

「…君は不正受験かつ体調不良によりこの飛行船で特別に最寄の街まで送られているところ」

私の疑問に対して的確な答えをヤチは持ち出した。疑問を紙で渡してもいないのに、だ。
コップに向けられていた視線をゆっくりと前に座る青年に合わせると、奴は肩をすくめた。

「俺はね、多少他の人より感受性が鋭くてさ。何が言いたいのかが分かるんだよ」

それでも君のはとても解り辛いけど、と視線を窓の外に移る景色に向かせながら言った。
よくよく見てみるとこいつは今纏をしている。もしかしたら念の発動中なのかもしれない。
他人の心を読む念。それが本当にこいつの能力かどうかは不明だが、可能性はあるのだろう。

「これが能力の全てって訳ではないけど、まあ外れてはいない」

感受性、もしかしたら洞察力も鋭いのかも知れない。
これがヤチの念かもしれないと疑問に思った際、凝で奴の纏を見ているのだ。
その瞬間を見られ、どんな考えをしているのか察した可能性もある。
相手の行動全てを総合して心を読む、としたら念能力だけではなくヤチ自身も凄いのだろう。
こんな風に吹かれた雑草みたいな動きをしていても。

「今ちょっと失礼なこと考えたでしょ」

…これは厄介だ。



その後は無言の私とヤチの短い簡潔な応酬によって私が置かれている状況が明らかになった。
私は三次試験の試験官から手当てを受け薬のようなものを飲んだ後、半日以上眠った。
その間に受験生は三次試験に挑み、私は別の飛行船に乗せられて近くの街まで送られている。
街に着いたらそのまま病院へと運ばれ診察を受けてから解放される予定、ということだった。
何だか待遇が良すぎる気がする。

「ねぇ、君は何者?」

毎年何万の受験生を相手に試験を開催し、死ぬことすらも自分の責任だとしているにも関わらず、
こんな得体の知れない子供…それも不正受験を働いた子供になぜそこまでの世話を焼くのだろうか。
そう疑問を思ったところで、私が何を考えているのか悟ったのだろうヤチは、しかしその答えを出す前に、
ここでは初めてみるような興味とも好奇心とも取れる目を私に向けて聞いた。

「あの試験官がここまで君に執着するなんてね、今世紀最大の仰天出来事だ」

肘を付いてだらけながら言われても説得力は皆無だが、目の色は変わっていないので面白くは思っているようだ。
あの試験官、というはおそらく世話を焼いてくれたあの三次試験官のことだろう。
この処遇を取り計らってくれたのがあの試験官なのだとしたら、それは私としても驚きだ。
あの黒い目はどこにも向けられていないような印象を人に与える。
私としては何故か懐かしさのようなものを感じていたのだが、他の奴から見ればそれはもしかしたら
恐怖の対象になるのかも知れない。
そんな人間に、飛行船を用意させ最寄の街の病院まで送り届けるよう指示が出るほど何かを思われている奴がいれば、
興味の対象になるのは仕方ないことだろう。この場合、その対象が私になるわけだが。
しかしあの試験官は見覚えがない。
この世界に来てから出会っている人物と言えば、数は多くない。むしろ少ない。
そんな中であんな特徴的な目を持つ人物を忘れるわけがないのだ。つまり初対面、だと思う。
考えてみてもやっぱり真意は分からない訳で、もう探ることは諦めた。まあいいや。

徐々に高度を下げてきたことを窓の外の風景から感じ取り、併せて町並みが広がることも確認する。
目的地に到着したようだ。
私は一度医務室へと戻り、鞄を取る。中身を確認したが、特に無くなっている物はないようだ。
ふと肩掛け紐の金具部分に何かがぶら下がっているのが見えた。
手に取ってみると、それはどうやらクマのアクセサリーのようである。
なぜこんな物が、一体誰が、と考えたところで、あの三次試験の試験官が思い浮かんだ。
確証はないが、なぜだか揺るぎない確信がある。根拠も何も必要のない真実。事実。
そうすんなりと頭に入ってくる。嫌な感じはまったくしない。
まじまじとクマを手にとってひっくり返したり逆さにしてみたりしたが、別段変わったところはない。
何となくににおいを嗅がせてみると、何やらすごい反応した。尻尾を振り回し、鼻をくっつけてくる。
ものすごい勢いでにおいを嗅いでいるのだが、鼻水がつくよと押さえて牽制した。
念のため凝で見てみるが、念が纏わり付いているわけでもないし、おかしな物ではないようだ。
持って行く理由もなかったが、置いていく理由もないし何より憚られたため、そのまま持って行くことにした。
歩くたびにクマが揺れる。



街へと降り立ち、そのまま病院へ直行。診察を受けたが異常は見つからず、すぐに解放。
かと思いきや、これも三次試験試験官のお達しなのか、1日だけでも入院することになっているらしかった。
与えられたのは個室。清潔感溢れる、日当たりも風通しも景色もいい好条件が全て揃っている病室だ。
本当に意味が分からないと軽く混乱し始めた私に、院長だと名乗る優しそうなお爺さんがとどめの一言を言った。

「診察料とか入院費とかその他諸々はもう貰ってるから、心配しなくて良い」

もう、いいや。私は考えることを放棄する。
せめて、「その他諸々」に汚い金が混じっていないことを祈るだけである。



そういえば、シャルナークの存在を忘れていた。
何が何だか分からない流れに身を任せていたら、幸運にも逃げられたようだ。



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