「これでいい」

キュ、と巻かれた包帯が腕を少し圧迫した。
突然の体調不良に疑問符ばかり浮かべている私を尻目に、青年は手際よく腕の傷を診察し、
なにやら殺菌作用のあるという草を挟み包帯を巻いた。
鳥とやりあった時にいつの間にか引っ掛かれていたようで、そこには血が滲んだ後があった。
何の手当ても施されていなかった傷口を化膿菌が見逃すはずもなく。
侵入を果たした結果が今の高熱の原因である。
くそ、と化膿菌に対して殺意を覚えたが、元はと言えばこの傷を付けたあの鳥だ。
こんな時間差攻撃を仕掛けてくるなんて。迂闊だった。
しかし卵を取られるとなれば、それは親としては必死に守るよな。当然だ。
そもそも卵を取ってこいと言ったあの二次試験官が悪いんじゃないだろうか。
もっと平和に石を取ってこいとかだったら石を主食にしているような不思議生物がいない限り
危険なこともなかったし怪我をすることもなかった。
それでは試験にならないとかそんな問題、今は二の次である。
いや、だが。もっと引いてよくよく考えてみると、今私が高熱を出しながら医務室で横になっているのも
ハンター試験に参加してしまったのが原因だ。
そしてハンター試験に参加する破目になったのはあの腹黒シャルナークのせいである。
つまり、原因はあいつだ。ハンター試験に連れてきたシャルナーク。あいつが全ての元凶なのだ。



ミスマッチ22



今度あの携帯電話をドブ川にでも沈めてやろうかと策を立てている横では、と灰色の犬が
お互いのにおいを嗅いで挨拶をしていた。
今までが他の犬と接触することはそう多くはなかったが、自分から積極的に相手とスキンシップを
とっているのは結構珍しいんじゃないかと思う。
そもそもはあまり他の生物に反応を示さないのだ。
それが警戒するという意味合いであればお前は軍事施設に設けられた最新レーダーかと思いたくなるほど
敏感に気配を悟るのだが、興味という意味合いになればほとんど動きを見せない。
カレンの家で世話になっている時だって、公園に行って他の子供が近寄ってこようが動こうとはしなかった。
それこそ石像となった忠犬ハチ公のように。
だからこそ今ベッド脇に仲良く並んで座っているが物珍しくて仕方ないのである。
一通りの挨拶を終えてもまだ相手に顔を近づけているのを見ると、まるで内緒話をしているようにも見えた。

と、こうやって微笑ましい犬2匹のやり取りに熱で浮かされながらも意識を必死に向けているのは、
先ほどからベッド横で突っ立って私のことをじっと見ているあの青年がいるからだ。
これは一体どうしたことか。私が視線を感じてわざと目を逸らしていることに気付いているだろうに、
一向にその目は私を射抜いたまま動かないのだ。それこそ穴が空くかと思うほどに。
正直言って、いや、正直言わずとも気まずい。私にどうしろと言うのだ
ここは思い切って目を合わせてみれば良いのだろうか。しかし目を合わせて次はどうすればいい。
更に気まずい雰囲気がナメクジのようにこの部屋を這うだけである。
だがいつまでもこの状態では、高熱時の胃の検査のようにとどめを刺されてしまうようなものでもある。
もしも私がメデューサであったなら何も躊躇することはなく今すぐ目を合わせてやるのに。
喉を焼くかのように熱い息を吐き、覚悟を決めてゆっくりと青年へと向かい合った。
視線が交わり、数秒。

「名前は?」

闇の塊から捻出されたような凝固とした声は、しかし私にはとても懐かしい響きとして受け止められた。
感情が篭ってないような平坦な声なのに、それでも暖炉のような暖かみと安らぎが感じ取れる。
初めて聞く声なのだろうか。それとも今までどこかで聞いたことのある声なのだろうか。
少なくともこっちの世界に来てからは聞いた事がない声色である。
もちろん元の世界にもこんな不思議な声を持った人はいなかった、と思う。
朦朧としている頭で今まで会ったことのある人物を思い出してみるが、やっぱり心当たりはない。
記憶力に絶対の自信がある訳ではないので100%とは言い難いが少なくとも記憶にないとは言い切れる。
深く頭の芯にまで浸透していく心地の良い声に触発されたからだろうか。
それは自然と何の疑いもなく私の口から発せられていた。

「…



きっと蚊の鳴くような声だったはずだが、青年にはしっかり聞こえていたらしい。確かめるように復唱した。
そしてまた視線が合ったまま沈黙が降りる。
天井が落ちてきたんじゃないかと思うくらい息苦しいが、なんだか段々慣れてきたような気もしてきた。
だいいち私だってそんなに喋る方でもない。このくらいの沈黙がちょうど良いのだ。そう言い聞かせる。
そのまましばらく時計の音だけが規則正しく部屋を闊歩していたが、それも聞こえなくなってくるほど
自分の体温に支配されて眠気に襲われた。
瞼が重くなって目が乾き、目を閉じればすぐにでも意識が沈んでしまいそうだ。
もう既に青年と意味のない、たぶん一人相撲な睨み合いをしている余裕もない。

、は不正参加だね?」

閉じられそうになっていた感覚をこじ開けるように届いたその言葉に、眠気がふっ飛ぶほど驚いた。
ばれてる。
いや、でも今までばれなかったのが不思議なくらいだった。
おそらく二次試験で受験生も絞られてきたから、確認したのだろう。不正している者がいないか。
そして気付かれた。

「不正参加と分かった以上、試験に参加させる訳にはいかない」

抑揚のない声で失格を言い渡される。
そこには不正を責めるような色も蔑むような色も含まれていない。
案外あっさりとした終わり方だ。ここにシャルナークがいたら煩くなりそうだが、あいにく居ない。

ふと青年がベッドから離れ、机に置かれていたズタ袋の中から薄緑の液体の入った小瓶を取り出した。
それを医務室に備え付けられているポットの湯と割ってカップの中でかき回している。
嫌な予感しかしないから寝たふりでもしようかと思ったが、それよりも早くそのカップを差し出された。
自分は薬草を取り扱っており、これを飲むと大分楽になるよ、というのが青年の弁明だ。
横になったままカップと青年を見比べるが、現状が何も変わらない。青年に引く気はないようだ。
泣く泣く半身を起こし、そのカップを受け取る。やっぱり飲めということだろうか。
色的にはポーションのような衝撃は受けないが、それでも色の付いた液体を飲むのは気が引ける。
それが緑とかいう得体の知れないものであれば尚更のこと。
だが匂いはしないようだ。が顔を近づけてきたので嗅がせてみたが、何も反応はしなかった。
量はそんなに多くない。だとしたらさっさと飲んで青年の視線から逃れるべきであろう。
腹をくくり、ぐ、と息を止めて一気に飲み込んだ。ぬるい温度が喉を通る。
「良薬口に苦し」というくらいだから、舌が痺れるほど不味いんじゃないだろうかと思っていたのだが、
意外や意外、無味無臭であった。ただのぬるま湯を飲んでいるようである。
空になったカップを青年に返し、また前足をベッドにかけて身を乗り出しているの頭を撫でた。
が、その隣にもう一つ頭が増えている。青年が連れている灰色の犬だ。
噛まないのだろうか。
じっとつぶらな瞳で見つめるものだから、おそるおそる手を伸ばしてみる。
ほどではないが、ふわりとした毛の感触が手の平に触れた。
そのまま撫でれば気持ち良さそうに目を細める姿がかわいい。人懐こいな。

あれ、そういえば。
ずっと前に聞いたことがある気がする。
"黒髪黒目で犬を連れた薬売りの青年"
確かあれは、カレンの祖父から聞いたはずだ。カレンの症状を和らげた薬を貰ったと言う、あの話。
もしかしてその薬売りの青年とはこいつのことなんじゃないだろうか。特徴は一致していると思う。
事細かに聞き出したわけではないが、直感的に同一人物だと感じた。
カップを水道で洗っている後姿を凝で捉える。洗練された纏だ。
やっぱり、こいつなのかも知れない。とそう思ったところで、視界がぐらりと揺れた。
手をベッドに置いたが支えることは叶わず、大して柔らかくない布団へと倒れる。枕が硬い。
その音に気付いた青年が近寄り、自分と私の額に手を置いた。

「まだ熱がある。休んだ方が良い」

言い聞かせるように、促すように言う。
なんだかみたいなポジションを確立しているような物言いだ。保護者みたいな。
だが目が半分も開かなくなってきたのも事実だ。
ここは大人しくこのまま眠ってしまおうと思う。でもその前に伝えるべき事がある。
いつもは煩くて、頼んでもいないのに私の体力を底上げしてくれた、

「カレンを助けてくれてありがとう」

また流し台へと戻った青年が首だけで振り返って、真偽を問うような視線を向けてくる。
覚えていないのか、カレンの名前を知らないのか。返事がない。
白兎の念に掛かっていた少女、と補足すると、ようやく「ああ」と小さく納得した。
視線を少し上に向けて、その頃を思い出すように数回瞬きをする。

「助けていない」

濡れタオルを手にベッド脇へと戻ってきながら言った。
額に置かれ、ひやりとした温度が心地良い。
折りたたみ椅子を広げ、そこに座った。ぎしりと古びた音が鳴る。
ここに長居するつもりなのだろうか。てっきり言うこと言ったらすぐに出て行くのだと思っていたのだが。
あ、そういえば、青年はあの後カレンの念が取払われ、今では初めての散歩に出掛ける子犬のように
元気なことを知らないんだった。

「症状を緩和しただけ…」

「助かったよ」

カレンは助かったんだと青年の言葉を遮って言う。
白兎は食われ銀時計は噛み砕かれた。
それを行ったのが私だとしても、症状を和らげてくれたのだ。礼を言うべきである。

「ありがとう」

否定や謙遜を許さない声でもう一度言うと、青年はそのまま黙ってしまう。
部屋にはまた沈黙が降りたが、それは先ほどのように気まずく重たいものはなかった。
時計の音が大きく響き、時おり医務室の前を足音もさせずに誰かが通り過ぎていく気配を感じる。
と灰色の犬は仲良く並んでベッドを覗き込み、青年はただ座ってこちらに視線を投げている。
なぜだか、懐かしい。とても落ち着く。ドーム型の膜に包まれているような安心感がある。
ピチョン、と水道の残滴がシンク台を叩く音がした。

「…は、あの家の子?」

何かを考えるように、確かめるように問われる。
なぜいきなりそんな話をするのか分からなかったが、カレンの話を持ち出したからだろうと勝手に思った。

「違う」

少し迷って、答える。あの家族は私のことを娘のように可愛がってくれているが、それでも居候。
血の繋がった家族ではないのだ。
青年は小さな声で「そう」とだけ返事をして、また何かを考えるように黙り込んだ。
もう誰かが部屋の前を横切る気配はしない。
時計を見てみると、すでに夕食の時刻が近づいている頃だった。
熱で体力を奪われて、布団に沈み込むような感覚と気だるさが全身を襲う。
青年には悪いが、このまま寝てしまおう。目を閉じる。
それに気付いたのか、青年が「おやすみ」と声をかけてきた。「おやすみ」と小さく返す。

大きな手が頭に触れる感触。撫でられている。
熱の所為なのだろうか。それがとても気持ちよく感じられた。

急速に遠のいていく意識の中で、昔に見た夢をふと思い出した。
カレンの家に辿り着いた初日の夜。布団に潜りこみながら見た夢。
あの夢でも誰かが私を撫でていた。その暖かみが蘇る。
感触がまるで似ていた。あの夢の中の人物と、今私の頭を撫でている青年の手が。

そして完全に意識を落とす直前、
私の意識の下で、誰かが泣いている。そんな気がした。



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