ああよく寝たと普通であればここで言うべきだろうが、しかし太陽が真上どころか
色を濃いオレンジに変えて沈み込もうとしているのを目の当たりにしてしまうと
睡眠を十分にとった気持ち良さよりも後悔が先立つのはなぜなんだろう。

 


ミスマッチ02
 



私は寄りかかっていたの腹から起き上がり、いまだぼうとした頭で
穴の出入り口から見える外を見回し目を擦った。
大口を開けて盛大なあくびをしてから横を見ると顔を上げたと目が合った。
耳をピンと立たせて何かを待ち構えているような、期待しているような、
私の一挙一動一言を逃すものかと言う気迫に溢れた表情だ。
私にどうしろと言うのだと思いながらもとりあえず「おはよう」と声をかけた。
きっと同じ言葉を家族に言ったなら「おそよう」と返ってくるところだが、
は小さくワンと鳴いて返事をした。
実際に文字に起こすとなるとオゥとかワゥとか聞こえるが、
一般的にここはワンと表すところだろう。
ワヒーンでないことは確かだ。
私のあくびが移ったのかも大きく伸びをしながら大口を開ける。
不自然な格好で後ろ足も伸ばす姿は一見凛々しく見えるこいつには
似ても似つかないがちょっとときめいた。可愛い。


とは昨日なぜか助けてくれたあの黒い犬だ。
熊の件の後、けっきょく に大人しく付いていき、辿り着いたのがちょっとした洞窟だった。
雨は凌げるが風も混ざれば確実に濡れるだろう浅い窪み。
それがその夜の寝床であった。
はその一番奥に腰を下ろして横たわり、こちらを見ながら尻尾をぱたぱたさせた。
え、まさかその腹の上に寄りかかれというのだろうかと意思疎通のできない動物に対して
確認するかの視線を送ったところ、はやはり小さな声でワンと鳴いた。
それが私の疑問に満ちた視線に対する返事なのか、早く寝ようと促している声なのか
判断はしかねるが、とりあえず私はのすぐ横に座った。
そのまま目の前の腹を撫でる。
まさかここで怒って足蹴にされないだろうなと思いながら撫でてみたが、
予想に反してと言うか予想通りと言うか。
は気持ちよさそうに目を細めた。
洞窟の閉鎖された雰囲気のおかげか、はたまたどこからともなく現れた救世主に安心してか
それまで微塵も感じなかった眠気が気体から鉛へと変化し主に瞼へと重りを乗せた。
お言葉に甘えて失礼しますと意を込めて腹を軽くポンポンと叩いてから
ゆっくりとその毛の中に埋まる。かなり気持ちいい。
もぞもぞと一番楽な姿勢を見つけて落ち着くと、耳元に宛がわれているの体内から
人よりも少し早めな心音が聞こえてきた。
呼吸のためにゆっくり上下する腹とその上に乗せられた頭。
ふわりと体の上に重みが加わり半分閉じていた目で見てみると尻尾が乗せられていた。
掛け布団の代わりなのだろうか。あやすように小さくぱたりと動いている。
この森に迷いこんで約1日。
訳も分からず一人で彷徨い続け、薄暗闇の中で生まれて初めて
死の恐怖を味わったことを不意に思い出した。
それらに対して何とも感じていなかったと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
今になって不安や恐怖や困惑といったものが渦になって襲い掛かってきた。
そしてその血液のように体中を巡る激情に被せられる心音と
尻尾の振動がたまらなく優しくて泣きそうになった。
しかし犬の前であろうと泣くなんてご免だと思い必死に堪える。
かろうじて鼻を啜るだけで留まることができた自分によし、と合格を与えてから、
そういえばこの犬をなんと呼ぼうか決めていないことに気がついた。
この先まだまだ世話になるような予感が虫の知らせのように
じりじりと蠢いているから、きっとこの予知は当たるだろう。
犬の顔を改めて見てみる。犬なのだから当たり前だろうが、
鼻がスッと伸びて目は細いため、凛々しくそして逞しく見えた。
昔こんな黒い犬を飼っていたなと思い出す。
私が生まれる前から飼っていて、私の年齢が10を数える前に旅立った。
あの頃に初めて死とはどんなものか漠然と理解をし、とてつもなく悲しかったのをよく憶えている。
あ、思い出したらまた泣きそうになってきた。くそ。
たしかその犬の名前は

だったはずだ。
目を閉じかけていた犬が耳をピンと立たせ私を見つめる。
「これからお前のことをと呼ぶ。よろしく」
名前が気に入らなくて噛みつかれたらどうしようと思っていたが幸いにも何もされず、
クンと少々高い声で鳴いて了承したことを感じた。
その返事に満足して、うんと私も返事を返してからようやく眠りについた。
眠る直前おやすみと声をかけ、まどろみに沈み込むのを抵抗せずに受け入れた。
心が満たされた感じがした。


そしてそれからハムスター並みの睡眠時間を得た私は色を変えた太陽に
いい加減起きろと叱責されて起きたのだ。眩しい。
寝起きに眩しいものを見せられると殺意が沸くよね、とを見やったが
2度目のあくびが返されただけだった。
返り討ちにあってでもここは同意を強制的に求めるところだろうかと思ったが、
その前に私の腹が悲鳴を上げたことでこの件は終息したのである。
洞窟の中はいたって平和だ。
腹も減ったがそれよりも喉が渇いていた。
通じるかは分からないが、試しに水のみ場はあるか訪ねてみたところ
は立ち上がり私を昨夜のように誘導した。
歩くこと10分。意外と近いところに小川が流れていた。
水は澄んでおりとても綺麗である。
飲んでも問題なさそうだがふとどこかのサイトで見た寄生虫が思い出された。
掌に掬った水を眺めている横でが美味そうに水を飲んでいる。
覚悟を決め私も水を流し込んだ。


今夜は満月だ。
起きたのは夕方であれば夜中でも眠くないのは当たり前である。
私は夜行性動物よろしく森の中を進んでいた。
しかし昨日とは違って横にはが並んでいる。
なぜ付いてきてくれるのかはわからないが、とてつもなく心強いので
あえて何も聞かず一緒に歩き続けている。
食事はそこらになっている果物で済ませている。
洞窟で響いた腹の音をは覚えていたらしく、水を飲んだあと
果物の生っている木まで案内してくれた。
それはりんごのような実で赤かったが、齧るとシャリではなくボリという
煎餅のような音がなったが味はりんごそのものという不可思議な食べ物だった。
もはや果物と言っていいものなのかの判断もつかない。
しかしその甘みのおかげで疲れはふっ飛び腹も膨れたので
果物だろうが何だろうがどうでも良いことにした。
隣では同じくがボリボリ言わせながら果物を食していた。
月が照らす森の中を、木の根を避けながら少しずつ進む腕の中には
その果物が数個納まっていた。
これから先のことを考えて持ってきたのだ。

歩きなれていないことや、もともと体力が現代っ子並みにしかなかった私はすぐにへばった。
軽く息を弾ませながら足を前に出すが歩幅が狭くなってきている。
まだ歩き出して2時間もたっていない気がするのに。
この体力の無さを呪うのは以前友人と上り階段競争を行って以来久しぶりだ。
盛り上がった根によじ登 り辺りを見回すがやはり何も見つからない。
行けども見渡せども同じ景色が続くばかりだ。本当にここから出られるのだろうか。
耳が塞がれるほどの静寂の中で佇み不安に駆られる。
気をしっかり持たなければならないことは十分にわかっていたが、
それでも不安というものはどこからともなく湧き上がってくるものだ。
木の根に立ったまま視界の奥を見続けている私に、が小さく呼び掛けた。
その声に私は思考に耽っていたことに気付かされた。
そうだ、こんな所で考えてたって何も始まらない。
そう自分に言い聞かせ、の横に飛び降りる。
軽く頭をなで、さて出発しようと踏み出した私の前にが滑りこんだ。
突然の行動にびっくりして行動を見つめていると、は私に背を向ける格好で座り込んだ。
しばらくその姿勢に対して私がどのようなアクションを起こせばよいのか悩み、
そして背中に乗れと訴えていることがわかった。
いやいやいや無理だろうと頭では思っているのだが、は不思議な安心感を纏っているのだ。
それに呼応するように私の体は素直にその背中へ向かった。
少し躊躇しながらその背に跨ると、ゆっくりとは体を起こす。
不安定感から落ちるのではないかと思っていたが、何やら私の体との背は
ぴったりと嵌ったようにくっつき違和感もないまま進みだした。
私には生まれつき動物の背中に乗るのが天才的に上手いという
特技があったのではないかと思ったが、 昔馬の背中から落ちたことを
思い出しその奇跡的な考えは有り得ないことに思い至った。
ではなぜの背中から落ちもせずもののけ姫のように
犬の背に乗れたのかという疑問が 大きく頭の中を占めていたが、
当然のように答えは出ず 結局まあそんなものかなと
適当な結論を付けて終わらせた。

私がの背で楽をしながらつらつらとどうでも良いことを考えていると、
不意に何かが臭った。
それまで森特有の草木や土の匂いしかしなかった鼻に、
急に不快感をもたらす異臭が混ざりこんだ。
この臭いはあれだ。生ゴミの日にゴミ収集車が横を通り過ぎていった後のあの臭いだ。
いや、それよりも酷いかもしれない。
いろいろなものが混じって生まれた未知の刺激臭だと言うと言いすぎかも知れないが、
感覚的にはそんな感じだ。
しかしこれはきっと人が生み出す臭気なのだろう。
この臭いを辿っていけば人が住む場所に出られるかもしれない。
幸い鼻が強いもいることだし、これなら容易にこの臭いを辿れるだろう。
私は鼻をヒクヒクさせていたに、その臭いの根源へ向かうように指示を出した。
もしかしたらその指示に限りない反発を覚え振り落とされるのではないかと
心配したがそんなことはなかった。
太陽が顔を出し空が白んできた朝、 私達はそこに向かった。

 

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