乾いた葉を踏み潰す感触が素足の下から響いた。
私がこのジャングルとも言えるような森に迷い込んでから約半日。
当然の如く出口など見えない。1歩進めば地平線の向こうから背の高い植物が姿を現し、
大樹を1本歩きぬけきれば新たな大木が視界の奥に現れる。
高い葉の隙間から僅かに見える太陽は西へと下り、冷たい風が吹き抜けた。
夜行性の鳥類が雄叫びを上げながらこれからの狩りを祝福するかのように
大きな羽を広げて頭上を通り過ぎる。
長く伸びた影、と言えればいいのだが陽を隠す葉の影に私の影が飲み込まれ、
どこまで伸びているのか定かじゃない。
また一歩踏みだせば葉と枝と+αで柔らかい虫を踏んだ感触がした。
もう嫌だ。
 
 
ミスマッチ01
 
 
 
は?これが第一声。
ここはどこだ。それが最初の疑問。
瞬間移動。タイムスリップ。パラレルワールド。
いろいろ候補を挙げてみたが、つい先ほど頭の近くに足が6本ある蛇を
見かけたため瞬間移動の枠は消えた。
あんな奇怪な動きをする蛇を見てここが地球だとどうして信じられるだろう。
せめてツチノコが良かった。
あんな長い胴体に申し訳程度の足が付いていたってなんの役にも立たないだろうに。
しかも足の付き方が左右対称ではないときた。どんな進化をしたんだまったく。
 
2つ目の疑問。
なぜ私はこんな所にいるのか。昨日もいつものように眠ったはずだ。
いつもと違うと言えば風呂でシャンプーとボディソープを間違えて使ったことくらいだ。
妙に髪がばさついて体がすべすべしていると思ったらそんな。
なんであんなにボトルの見た目が一緒なのか。もっと変えろ色を。
 
そして最大の疑問。謎。
なぜ私は縮んでいるのだ。
どういうことだこれは推測で小学1年か2年じゃないか。私は先日齢18を数えたのだ。
最初はこの周りに茂っている樹齢百年は超えるのではないかという巨木に
囲まれているから自分が小さく見えるのだと思ったのだ。
それなのにどうだ私の手は。どう見ても子供の手。
ふっくらして柔らかく、紅葉のような手とはこういうものなのか と不覚にも感心した。
頬を抓るなんてことはしない。頬を押した時点ですでにその圧迫が
歯や歯茎まで到達し僅かに痛みを伝えていたからである。
いっそのことこの綺麗に整えられた爪を立てて抓ってやろうかと思ったが、
それでは自棄になりすぎだと思いやめた。
絶対痛い。残念ながら私にM的嗜好はないのである。
 
 
さてこの3つの疑問を総合して考えると導かれる答えは以下の2つ。
タイムスリップ、パラレルワールド。
 
まったく信じ難いがこれを信じないとするならば私の縮んだ体とこの場所を
どう説明すると言うのだろう。
まだ多少頭が混乱しているのは認めるが、観念しなければならない。
とにかく歩こう。こんな所で野垂れ死には嫌だ。
何が楽しくて虫と植物の栄養にならなければならないのだ。私は火葬と決めている。
外国映画のゾンビのように蛆を育てるなどまっぴらご免だ。
 
 
 
そうして短くなった足で歩いているが一向に景色が変わらない。
すぐ近くにあると思った木はさすが巨木。なかなか辿りつかない。
体が縮んだアリスはこんな気分だったのだろうか。
一瞬おとぎ話が浮かんだがそんな不思議体験アリスだけがしていればいいだろうと
私の中に潜む大魔王が不思議の国を抹殺した。
 
汗がじっとりと体を濡らす。
空気は冷たいが多少の湿気を伴う森は風邪を引くのに絶好の場所だと思う。
つい昨日までぐうたらな生活に浸かっていた足は小鹿のように震え、
棒のように感覚がなくなってきてる。
足の裏はすぐに切れるかと思ったが、どうやら土が軟らかく石があまり落ちていないため
痛みはあるが切れてはいないようだった。
しかしもう本当に限界だ。精神的に。
 


唐突だが、仮にこれが神とやらの思召しだったとしよう。
一言申す。
 
くたばれ。
 
ぎちぎちと奥歯を鳴らしながら心の中で悪態を吐く。
大きな声で天まで届くよう唱えてやりたいが実は近くに人がいるんじゃないかと思うと怖くてできない。
もし自分が、一人でいきなりくたばれと叫ぶ少女を見かけたとしたら声もかけずにその場を離れるだろう。
間違っても話しかけない。助けようなどと天地がひっくり返っても思わない。
いやしかし誰かに助けてもらうには声を出すのが一番だ。そうは思うがもう陽が沈んできている。
凶暴な肉食獣は夜行性のはずだ。
ここで声を上げて助けを呼んでみたとしよう。一瞬だ。私が喰われるまで一瞬だ。
蛆の栄養になるのも嫌だが見も知らずの肉食獣にタダで恩恵を与えるのも同じく嫌だ。
 
はぁ、と1つ息をつくと足を止めた。そろそろ体を休ませよう。
どこか枝が低い位置から順々に伸びている木はないのだろうか。
木登りは得意でないが地面で転がって寝るより安全だ。たぶん。
私にはサバイバルや野生動物の習性など詳しいことはわからないが、
どう考えても地面より木の上の方が安らげる。
幸い月も出ていて暗闇という訳ではない。
近く遠くに目を凝らしながら、寝床を探す。
眠れるわけがないとわかっているがとりあえず休みたい。
 
左右前後を忙しく見渡しながら歩き回り、首が取れそうだと思ってきた頃、
ふと右側の森の中にやや斜めに生えている木があった。
周りの木よりも小さいが、けれど大木と呼ぶに相応しいそれは
程よく出っ張りや枝が付いている。
私はロッククライマーだと自分に言い聞かせ四肢を使ってみれば、
案外軽く登ることが出来た。
あまり高いところまで行っても降りられなくなるだけだし、と
地面から6、7メートル程の高さにある枝に腰掛ける。
けっこう地面が遠い気もするがまあ大丈夫だろう。
視点が高くなり少しは辺りを見渡せるかと思ったが、何しろ高い木ばかりだ。
景色はほとんど変わらなかった。
仕方ない。
今日はここで大人しく留まり、朝がきたらまた歩こう。
決心して太い幹に寄りかかった。
 
 
 
***
 
 
 
それからどれほどの時間がたったか。
月が真上から少し斜めに落ちてきたときだった。
月明かりというのは本当に存在するものなのかと辺りの地面に
浮かび上がる淡い光は、 太陽のようにすべてを照らす強い熱ではなく、
空気に混じりこみ冷気を伴った優しさがあった。
そんな自分の置かれている状況を忘れそうになるほど穏やかな静寂が流れる中で、
突然心臓が竦みあがり血の気が一気に下がる感触で頭が覚醒した。
目を大きく見開き、反射的に寝転んだ状態からいつでも飛び退けるよう
体を起こし姿勢を低くして構えた。
 
何かいる。
 
ほとんど直感で脳が叫ぶ感覚。
でもわかる。危険だと警報が鳴り響いた。
 
「……っ!」
 
ざわ、と右側頭部の毛が逆立った瞬間、とっさに体を捻らせ木から飛び降りた。
完全に空中に身を投出し、まだ地面に着く前、背後で枝の折れる
鈍い音と唸る声がした。風圧が背中を押す。
バランスを崩したまま地面に倒れこむ。腕を下敷きにして受身を取ろうとしたが、
今まで受身なんて取ったことがない。
叩き付けられ、肺が圧迫される。喘ぎそうになるのを必死に飲みこみ、
無我夢中でその場から走り出した。
その直後に大きな地響きと共にとても重たいものが着地した音を聞いたが、
振り返る余裕などもちろんない。
獣の低い雄叫びに混じって、騒ぎに気付いた鳥類が耳障りな警戒音を発している。
それに煩いほど脈打つ心臓の鼓動が重なった。
酷い焦燥感。
身長ほどに生えている細い木の枝を払いのけ、柔らかく生え出していた
雑草を踏みつけながら必死に走った。
1歩1歩がまるで水の中を歩いているのではないかと思えるほどスローモーションに感じた。
水の抵抗を受けている錯覚を覚える。
 
もう一度背後から雄叫びが聞こえ、鋭い殺気に背筋が凍った。
飛び掛る一瞬の、狙いを定めて息の根を止めんとする声と、地を強く蹴る音が聞こえた。
恐怖でパニックに陥っていた私は神経総動員で第六感を働かせ、
咄嗟に手近の木の陰へ回り込んだ。
そのすぐ横の空気を切り裂く鋭い爪が月明かりの下、凶悪に光った。
勘というのは時に命を救うものだといきなり冷静になったりもしたが、
次の手を見極めようと振り返った時に猛獣と目が合い思考は黒く塗りつぶされ、
対照的に頭の中には白い幕が降ろされた。
「蛇に睨まれた蛙」と聞いていつも蛙はなぜ逃げないのかと疑問に思っていた。
どんなに距離が近くてもその得意のジャンプ力で逃げ切れるかもしれないじゃないかと思っていた。
しかし違ったのだ。
奇しくも蛙の疑似体験中である私は、真っ黒な毛に覆われた巨大な熊と
目が合ったまま 動かなくなった足を思考の片隅で理解しながら蛙に対して謝った。
これは逃げられない。
いや、逃げようにも手が見つからないのだ。
逃げ切れず殺されるのは目に見えている。
頭の中に降ろされた白い幕に諦めの色が1滴垂らされた。
地に根をはり本来の役目を果たさなくなった足を叱責しようにももう頭がまわらない。
どうしたら良い。どうしたら逃げられる。どうしたら生き残れる。
どうしたら怯ますことができる。どうしたら。
まるで用紙の上下をセロハンテープで留めてFAX送信するかのように考えが
ぐるぐると回転し答えはどこまで行っても見えてこない。
こいつが右手を振り上げてきたらその下に回りこもうか。
こいつが大口開けて噛み付いてきたら1歩飛びのいて目を潰してやろうか。
こいつが叩き潰そうと突進してきたら柔らかそうな鼻頭に木の枝でも刺してやろうか。
いくつものシミュレーションを瞬時に脳内で重ねていくが
どれも上手くいかないことは明白だった。
もともと勝てるわけが無いのだ。
かたや弱肉強食の世界で生き残った猛獣、
かたや危険など一生付き纏わないだろう世界で生まれ育った小さな子供。
体格差なんて考えるだけでも馬鹿馬鹿しい。
威嚇するように立ち上がっていた熊が、前足を地面に下ろした。
開きっぱなしだった口は唸るように閉じられ、目は先ほどよりも吊りあがり、
鼻の頭に皺が寄っている。
顎を引き、姿勢を更に低くし、そしてその私の肉を容易く噛み千切るだろう
牙を剥きだし轟音とともに襲い掛かった。
 
あぁ、終わる。
 
 
 
 
 
諦めか恐怖のためか固く目をつぶり身を強張らせたが、
しかし予想していた衝撃はいつまでたっても受けなかった。
静けさが途端に戻ったことに驚きを感じながら恐る恐る目を開けると、
そこには先ほど私に襲い掛かってきた熊がいた。絶命した姿で。
だらしなく開いた口から舌が垂れている。
先ほどまで獰猛な色を宿していた目からは光が消え淀んでいた。
その姿を傍らで見下ろす、熊ではない動物の姿。
死んだ熊よりも、森の中に蠢く闇よりも遥かに濃い黒。
そのシルエットは犬のそれであった。
まさかこいつがこの巨大な熊を殺したのだろうか。
熊は手足を投げ出したままぴくりとも動かない。
血が噴出しているようにも見えず正確な死に方がわからなかった。
しかし熊の体が首を支点としてくの字に折れ曲がっていることから、
おそらく首に噛み付いたかで殺したのだろうと予想することはできた。
ふと熊にやっていた目をそいつに向けたところで、目が合った。
いつの間にこちらを振り返っていたのだろうか。
動きや存在、その全てが静かだ。
そこらに生えて無言で佇む大木のような。
あるいはあたりを薄っすらと照らす月のような。
深い溝の奥深くを覗くかのように、吸い込まれそうな色を纏ったそいつは
私に向かって足を踏み出した。
黒い毛に黒い目。
同色で同化するはずの目は逆にその姿の中で際立っていた。
不思議と恐怖はない。
安心していたわけではないが、こいつは大丈夫だと漠然と思った。
 
その犬のような動物は私に鼻を近づけるとふんふんと鳴らす。
そしてそのまま私に体を擦り付けてきた。なんだろう。
私をマーキングポイントと間違えているのだろうか。
もしこのまま本当にマーキングしようものならその余裕の横っ腹に
一発めり込ませてやろうかと思ったが、それは杞憂に終わった。
その犬は私に頭を押し付けてぐいぐいと押す。
向こうへ行こうと言っているのだろうか。
特に抵抗はしなかった。私も一刻も早く熊の死体から離れたかったし、
何より抵抗は必要ないと思ったのだ。
 
そのまま体の向きを変えて歩き出した私の前を、誘導するように犬が歩き出した。
素直にその背に付いて行きながら思う。大きさは大型犬くらいだろうか。
今の縮んだ私にとって犬と言えど壁のように大きく感じる存在だ。
普段であれば恐怖を覚える対象のはずだ。
犬が嫌いというわけではないが、ここまで大きいと無闇に手を出そうなど考えない。
噛まれでもすれば抵抗もろくにできないだろう。
しかし、たまに振り返ってこちらの様子を伺うような仕種に
ほんの少しの小さな愛しさと安堵感が生まれた。
 

ここに存在するすべての生き物から敵と見なされ監視されているような
疎外感と居心地の悪さが付き纏っていたこの森が、
私を受け入れてくれたようなそんな気がした。
 
 

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