サバンナで動物が息絶えるのを待っているかのように空を旋回しているその鳥は、
さっきからエギョエギョ言って太陽を隠したり現せたりしている。
だが私たちの視界からは決していなくならないから、きっと監視をしているんだと思う。
一難去ってまた一難と言うべきなのか。いい加減にして欲しい。
私を食っても美味くない。この横にいる犬の方が肉付きも良いしきっと美味いぞ。
そんなことを叫んで聞かせてやりたいが、その後の結末は見えている。
鳥がを食う前にが私を食らうに決まっているのだ。それは避けたい。
屍肉食者と呼ばれるハゲワシのような動きをしている鳥は、先ほど見たホウオウのような
鶏冠をもつ大きな鳥であった。おそらく先ほど落とした親鳥の片割れだろう。
巣がある木の太い枝にとまり、エギョーと文字に表しにくい雄叫びをあげた。うるさい。



ミスマッチ18



オスには鶏冠があって、メスにはない。
オスは羽を広げれば学校の黒板のように大きく、メスはホワイトボードのように一回り小さい。
オスは地味な色で、メスは色鮮やかな羽をもつ。
オスの足は水掻きのように平べったく、メスの足は槍のように鋭い。
オスのくちばしは鋭く長く、メスのくちばしは比べると僅かに丸みを帯びていて僅かに大きい。
オスの鳴声は低く地をすべり、メスの鳴声は高く木の上を走る。

見た感じ、聞いた感じではオスとメスの違いはこんなところだろうか。
もっと生物学的な部分を言えば細かい点がそばかすのように浮かんでくるだろうが、
そんなことは今はどうでもいい。問題はあいつが私たちを敵と見なしているところだ。
先ほどのメスとリンクするように、巣を挟んで対角の枝へ下りた鳥は射抜くように睨みつけている。
やはりロックオンされているようだ。巣と、卵と、メスの敵だろうか。視線が先ほどよりも鋭い。
も静かに鳥を見上げていた。戦う気も勝てる気もしない私はここにいること自体間違っている。
乗り込むタイミングを誤って敵陣に一人で突っ込んだ哀れな兵士とまではいかずとも、
プロレスの試合にうっかり巻き込まれた審判の気分である。
このままの背に乗って全速力で走れば逃げ切れるだろうか。できればそうしたい。
だが視線を逸らすことなく鳥に集中し続けているを見る限り、それは不可能なことのようだ。
溜息という名の小さな深呼吸をひとつこぼして、仕方ないかと諦めた。
こうなったら逃げ回っている間に決着をつけてもらおう。がんばれ、との頭にポンと手を置いた。
カシカシカシカシと空気に透けるような音がする。鳥が高速でくちばしを叩いているようだ。
威嚇なのか、仲間を呼んでいるのか、巣を荒らされた怒りの行動なのか。
判断はつかないが友好的な行動でないことは確かだな。

そのまま1分もしないうちに、ばさりと大きな音を立てて鳥が飛び上がった。
高くまで上昇し、ピタリと止まり、そして羽の伸ばし方を調整して急降下してくる。
まっすぐ私たち目掛けて。
空気を裂くような音が僅かに響いた気がした瞬間、が真っ向から迎え撃った。
大きく跳躍し、野生の肉食獣が獲物を捕らえるかのように、覆いかぶさるように体当たりを仕掛ける。
しかし鳥の勢いを殺すことができず、私は向かってきた大きな動物2体を横に飛び退くことで避ける。
地響きを起こしながら落ち、そのまま地面を転がった。
すぐさまが起き上がり立ち上がろうとしている鳥に噛み付いた。鳥が奇怪に叫ぶ。
くちばしが振り下ろされる前には飛び退く。両者の間にすこしの距離と時間があいた。
騒ぎを聞いたのか、平和の象徴のような可愛い鳴き方をする小鳥はすでにどこかへ逃げている。
木が風に揺らされざわめいて、まるでプロレスの試合を見て興奮している観客のようだと感じた。
また犬と鳥がぶつかり合う。どうやら私は獲物としての価値がなくなったようで、見向きもされなかった。
よしがんばれ、と気がついているか分からないが拳を上げて応援する。
が鳥の上に覆いかぶさり、決着がつくかもしれないと息をつこうとしたとき、背後でガサガサと大きな音がした。
思わずナイフの柄に手をかけながら振り返ってみると、そこには先ほど落とされたメスがいた。
動きはいくらか鈍いが、どうやら怒りの頂点らしく野生動物特有の迫力がある。
この雰囲気に人の悪意や憎悪のようなものが混じったら、もっとおどろおどろしい殺意になるんだろうなと思った。

にはオス。私にはメス。
まさか2羽同時に相手にするとは思わなんだ。
フラフラしながらも羽を広げて威嚇しながらこちらもくちばしをカシカシいわせている。
やっぱり威嚇の行動なんだろうか。これで「仲間を呼ぶ」とかだったら嫌だな。
力いっぱい羽ばたいて飛んだ鳥が、一瞬の躊躇も、それ以上の威嚇もなく突進してくる。
どうしよう。ナイフを引き抜いて応戦しようとしてもリーチの差で負けるのは目に見えている。
だが、避けると言っても相手は鳥。羽と尾の傾け方ひとつで進路をちょっと変えるくらいわけないはずだ。
だんだんと視界の割合を占めてきた鳥に、考えている暇もないかと思いが向くまま足に力を込めた。
反撃もだめ、横に避けてもだめ、後ろに跳躍してもだめ。であれば、前しかない。
襲い掛かってきた鳥の足もとを、走り高跳びのポールの下をベリーロールで潜り抜けるように転がった。
腕にちり、と熱が走る。なんとかぎりぎりで避けられた後、すぐに起き上がって振り返ってみると、
先ほどまで私がいた地面が抉り取られているのが見えた。ちょっとぞっとした。
鳥はスピードを落とさず、ついでと言わんばかりにオスと戦っていたへと飛びかかる。
突然の乱入に対処しきれなかったが、横から飛び込んできた鳥に倒されるのが見えた。
そこにオスも覆いかぶさり、獲物にとどめをさそうと羽や足やくちばしを大袈裟なくらい動かして
全身で殺そうと躍起になっている。今まで聞いたこともないような、の痛そうな声が、する。
オスと、メスと、が混じり、3体の境界線があやふやだ。お互いの手や足が入り混じる。
鳥の、オスなのかメスなのか分からないくちばしが、の体に刺さって血が空中へと投げ出されたのを
見た瞬間、私のなかの血が、音をたてて下り、代わりに何か、熱いものが滾ったのを、感じた。



日が落ちて濃い闇となった森の中を、あてもなくひとりさ迷い歩く。
どこか遠くから鳥の声が聞こえる。何もない、あるいは犇めき合っている森の中から不可解な音が響く。
獰猛な小動物がどこかの草むらで命の取り合いをしている叫びが聞こえる。
柔らかく生えた足元の雑草でさえ、今では私を無言で余所余所しく、冷たく監視しているように思える。
思えば、一人で夜の森を歩くのは初めてだ。前は、が助けてくれた。
その後は浅い窪みまで付いていき、そこで眠った。

鳥とのやり取りで足を負傷したは、休養のため人形にしてポケットに捻じ込んでいる。
それに、野生が蠢く森の中で血のにおいをさせていたら厄介なものが寄り付くだろう。
鞄を肩にかけ、青い光に反射して不気味な色を放っている卵を抱え、不規則に並ぶ木の間を歩く。
これからどうしようか。
が今まで怪我なんてしたことがなかったから、どれ程で治るのか見当がつかない。
早く治るだろうかと期待を込めて人形にしてみたが、それが本当に良かったことなのかも分からない。
分からないが、仕方ない。
は怪我をした。血が出ていた。それなりに疲労していた。血のにおいが漂っていた。
そんな状態で歩かせるわけにはいかない。ここに手負いの獣がいますよと言い触らしているようなものだ。
膜のようにうすく張った雲の間から時おり顔をだす月の光を頼りに、周囲を見渡す。
どこか休めるところはないだろうか。自慢ではないが、がいない状態で襲われたらひとたまりもないのだ。
早々に寝床を見つけ、そこが多少安全ではなくても腰を落ち着けなければならないのである。

今までやったこともないような忍び足をしてみるも、枝や乾いた葉を踏みつけて否応なく響く音に
ちょっとした殺意を覚えてきた頃、周囲の木よりも殊更背がたかく立派な木が現れた。
なんだかコトダマが済んでいそうな生き生きとした木である。
さすがに登ることはできないが、その足もと、木の根辺りにちょうどよく窪みができている。
この際贅沢は言えない。こいつはご神木なんだ。守ってくれる、と自己暗示をかけてそこに座った。
すっぽりと嵌まることができて、安心する。卵を後ろに隠し、気配を殺した。絶だ。
あとは朝が来るまでこのまま待てばいい。
小さく息をつき、さっきのことを思い出す。

あの時、に群がる鳥に今までの比ではない滾りを覚えた。
何を考えることもなく、幾度か繰り返した動作で滑らかにナイフを引き抜いた。
あまりその時のことを覚えていない。気がついたら鳥の足を切りつけていて、羽を持ってぶん投げていた。
たぶんものすごく集中していたんだろうと思う。
その後は体制を直したが一発ずつ見事なアッパーを決め、鳥たちを撃退した。
全てが終わった後、自分が息を止めていたことに初めて気付いて、慌てて息をしたもんだ。
きっとあの滾りが、本物の殺意というものなんだろう。

卵も収穫したし、寝床も確保した。あとはの傷が癒えるのと朝日を待つだけだ。
窪みの中で膝を抱えて小さく丸くなる。じっと息を殺す。周りの音に注意する。
今は弱肉強食の音は何も聞こえない。耳が圧迫されるほどの静寂に包まれているだけだ。
風もない。音もない。気配もない。私は世界で一人なのだと錯覚する。
窪みから見える切り取られた景色は、私がいる場所とはまったく違う遠い世界なのだと思えてくる。
今いる暗闇の中でも、私は異物で浮いた存在であるような気がする。
不安に苛まれ、神経がささくれだっている。
…これでは駄目だな。余計に疲れが溜まるだけだ。

気分を一転するというか、自分のこの重苦しい思考をどうにかしようと、狭い穴の中で動く。
小さくなろうと膝を抱えていても寝転がっていても、どうせ変わらない。絶をしているのだし大丈夫だろう。
だったら私はこの穴の中で好きに動くだけだ。ここは私の空間である。
背中に置いていた卵を抱き、土に刺さっている幹に体を預けた。あ、ちょうどいい。
両側にちょっと出っ張った根が出ていて、骨盤矯正の椅子みたいな感覚がある。
ちょっとゴツゴツしていて痛いが。
足を伸ばして落ち着くと、だいぶリラックスができた。そうだ、これが休憩というものだ。
そしてまた耳を澄ますと、今度はとても低い、何かが流れるゴーというような音が聞こえてきた。
背後から聞こえる。これはきっと木の脈動だ。幹の中を水が移動している音。
そこには確かに、静かで巨大な生き物が存在しているのだと感じられた。
心音に似ていて、まだ少し昂ぶっていた気を静めてくれる。とても落ち着く。
目を閉じてその音に集中すると、私は大きな流れの中にいるのだという感じがした。


ふと目を開けると、完全に日が昇り明るい森が見えた。
いつの間にやら熟睡していたようだ。やはり私の神経は図太いのだろうか。
窪みから這いだして思いきり体を伸ばす。ポキポキと至るところで骨がなる。
どうやら何事もなく夜が過ぎたようだ。卵も無事だし荷物もあるしもポケットに入っている。
朝露が漂う木の根元で、ペットボトルの水を飲み干し、携帯食料を食べた。
飲料は底をつき、食料だって粘土のような携帯食料が2つしかない。
これはちょっと水や果物を見つけないとまずい。生命の危機だ。
卵もすでに手に入っていることだし、残りの時間は飲食物の確保といこう。
大木の窪みに卵を置いていこうか迷ったが、今はがいないからここに戻ってこれるかの
確証がないため断念した。鞄に入らず、抱えていかなければならないので邪魔だが、仕方ない。
朝日に反射して光り輝く卵がまぶしいと殺意を覚えながら、昨日とかわらず木が不規則に並ぶ森へと歩きだす。




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