私にはと食虫植物の他に瞬間移動という万能な逃走能力があり、
それを使役することによってシャルナークという蜘蛛からかくも見事に逃げ遂せ、
あの何でも自分の思い通りに行くんだぜという自信満々な鼻柱をへし折ることに成功したのである。



ミスマッチ14



なんて都合の良いことはなく、私は今もこの川辺でナビゲーターの仕事に従事している。
シャルナークはあの後「終わるまで待ってる」と絶望的な台詞と共に消えた。
岩陰に隠れているが時おり前方の森の中をじっと見つめているから、
きっとその辺にシャルナークが潜んでいるのだろう。ちなみに私にはまったく分からない。
本を読む気にもなれず、岩に腰掛けながら川に反射され揺れ動く光をただ見ていた。
何とかして逃げられないだろうか。
私はハンター試験を受ける気も、シャルナークと行動する気もない。
原作軸が回りだしたらさり気なく様子を見るか、夢で見たようにパクノダに念能力を使ってみるか。
その程度のことは考えていたが、本編そのものの流れに介入する気はないのだ。
しかし奴と行動しようものなら、アメリカ人が肥満もしくは肥満予備軍と判定される確立と
同じくらいの確立で本編に介入してしまうほどの面倒に巻き込まれる。
いや、もしかしたら兄が賭けに負けて奢らされる確立くらい高いかも知れない。それは嫌だ。
嫌だが、しかし。
何とかして回避しなければならないと思う反面、どうせ逃げられないだろうという諦めもある。
に乗って全速力で走ってもらえば、あるいは撒けられるかもしれないが、
居所をつきとめられる可能性もあるのだ。
そうまでして私を連れて行きたいのかと自問すれば自意識過剰なんじゃないかと答えが返ってくる。
だがあのおもちゃを見つけて楽しそうな目を見る限り、簡単には諦めてくれないだろう予想はつく。
あの家に押しかけられても、カレンの家族に迷惑をかけるばかりだ。

迷惑と言えば、私はいつまであの家に世話になっているんだという問題もある。
あそこで居候になってから既に半年以上。もうすぐ1年だ。いい加減私も図々しい。
きっとあの人たちは私のことを迷惑だと思っていることはないのだろう。それは分かる。
しかしその優しさが私に罪悪感を抱かせるのだ。
カレンと、カレンの祖父を助けた事実があるから、そのお礼も含まれているのだと思う。
だがそのお礼も充分受け取っている。お釣りが出るくらい私はあの家で良くしてもらった。
そういう思いがあるからこそ、今こうしてカレンの祖父の仕事を手伝っているのだ。
私には行く先も帰る場所もないが、長居するべきでもない。
もしかしたらシャルナークと一緒にハンター試験を受けに行くこと、これは良いチャンスなのかもしれない。
お金は持っていそうだし、いくら女遊びが激しいといってもこんな幼女に手は出さない。はずだ。
何かしらの危険が迫ってもがいるからとりあえずは安全だ。
いきなりあの家を出て行くことになってしまうが、二度と会えないわけじゃない。
いつかお礼と称してまたあの家を訪れれば良い。その時はまたホットケーキでも作ってもらおうか。

無理やりポジティブに考えてある程度考えがまとまってきた時、また一人受験生が現れた。
今まではただの受験生だと見ていた人物も、これからはライバルになる訳だ。
であれば、このナビゲーターという位置を利用してここで失格にしてしまえば楽なんじゃないだろうか。
ふとそんな黒い発想が頭を駆けめぐり完全犯罪への道のりが一瞬にして完成したが、
そうだ私はシャルナークじゃないと思い直し我にかえることができた。
太陽が沈みはじめ、もうすぐこの森は真っ暗になるだろう。
その前に早くこの受験生を送り届けようと、そちらへ向き直り合言葉を待った。



試験の締め切りまであと30分。つまりは夜7時半。
月が出ていないため自分の手すらも薄っすらとしか見えず、あの洞窟を彷彿とさせる。
そういえば自分がナビゲーターとしての役割を終えるまできっちり待っていたら、制限時間に間に合わず
有無を言わさず失格なんじゃないだろうか。シャルナークは大丈夫なのか。
あれから音沙汰もないから、もしかしたら途中で飽きて一人で行ったのかも知れない。それでも良いが。
暗くて寒いが今はに出てきてもらってカイロ代わりになってもらっている。
どうせ暗いのだから毛が黒いなどサーモグラフィーを使わない限り見えないだろう。
夜になってからは受験生の影もすっかりなくなり、きっと私を見つけられず森で迷っているんだと思う。
明日になれば街に戻れるか。もしくは否か。まぁ、頑張れとしか言いようがない。
ぬくぬくとした幸せな暖をとっている時、ピクリとが何かに反応した。
突然立ち上がり前方を見ている。今まで暖かかった部分が余計寒く感じた。
ふと現れたのはシャルナークだ。おぼろげに出てきた月明かりが奴の金髪に反射している。

「そろそろ時間だ。行こっか?」

ニコリと無邪気にも見える笑顔で言うが、こいつは攫うとまで宣言したのだ。
そう思うとこの笑顔もやはり黒く見える。この似非好青年め。
私はこの選択で後悔しないかもう一度思案し、1つ頷く。もう訂正はできない。
に跨り、このもののけ姫状態も久しぶりだなと思った。
相変わらずピッタリと嵌って、落ちる心配はミジンコの心臓ほどもない。
この後の30分の間に受験生が訪れるかもしれない。しかし残念だ。私はもういない。
ナビゲーターの仕事をやり遂げられないことに後ろめたさを覚えたが、もしここで首を横に振っても
結果は変わらずここを放り出すことになるのだろう。それなら自分の意思で立ち去ることを選ぶ。
シャルナークもきっと知っているだろう道を、夜目が利くに案内してもらった。
叩きなれたリズムでドアをノックし、いつもと同じタイミングで扉が開かれる。
どうぞと慣れた様子で受験生を招き入れた。
ここで私は踵を返すタイミングなのだが、今回はシャルナークに続き小屋の中まで踏み込んだ。
カレンの祖父が驚いた顔をしている。当たり前だ。まだ時間は余っている。
シャルナークがいるから声は出せない。紙に書いて簡単に説明しようと、小屋に備えられた紙とペンを手に取った。
カレンの祖父は勘が良いのか、それとも私が奇行にでる際は何かしらの理由があると分かっているのか、
察したように落ち着き払いシャルナークには普通に接していた。さすがだ。
私がペンを走らせていると横からシャルナークが覗き込んできた。あれ、と声を漏らす。

「あの文字で書かないの?」

あの文字とは日本語のことだろう。
日本語で書いても彼は読めないのだということを紙の角に書いた。ああ、と納得している。
紙には必要最低限のことだけを書いた。今までのお礼、家族に説明しておいて欲しいこと、これからどうするかのこと。
最後に別れの言葉。そしてもう一度お礼。
ちょうど書き終えたとき、テーブルに温かい紅茶が置かれた。
今まで外にいたのでとても有難い。それを火傷しないように気をつけて飲みながら、手紙を手渡した。
カレンの祖父の目が左から右に動き、みるみる内に目が驚愕に開かれた。
視線は紙に落とされたまましばし固まる。

「…これは、本当なのかい?」

ようやく顔を上げて喋った言葉は、震えているようにも覚悟を決めているようにも聞こえた。
目をまっすぐ見ながら頷いた。紅茶を飲み干す。
また沈黙が部屋を満たしたが、すぐ後に「待っておいで」と残してカレンの祖父は台所へと消えた。
やっぱりいきなり家を出ることは失礼だっただろうかと少し後悔したが、仕方ない。
台所からは包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。
料理なんて出来たのかと、ここにきて新たな発見があったが、そんな発見も意味を成さなくなってしまった。
少し寂しい感じがして、私は自分で思っている以上にあの家と家族に依存しているんだと気付かされる。
気分が落ちていたことを感じ取ったのか、が心配そうに見上げてきた。この眼も久しぶりだと思う。
カレンに連れ回され、頬が引き攣るのを我慢していた私を心配していたあの眼とは少し違う。
森の中や、白兎と対決する前に見たようなあの眼だ。
大丈夫だと意志をこめ、その頭をいつも以上に撫で続けた。

気持ちが落ち着いてきたついでにの口を横に引っ張っていると、カレンの祖父が台所から出てきた。
手に包みを持っている。それも2つ。
1つを私に、1つをシャルナークに渡して、お弁当だと告げた。

「急だったからサンドイッチくらいしか作れなかったが、夕飯としてでも食べなさい」

包みの厚さからして、これ絶対一食分じゃないだろうと言うことは分かった。
そういえば夕飯も食べずに試験を受けに行こうなど、無謀なことを仕出かしそうになっていた。
有難く頂戴することにして、荷物はシャルナークに持たせる。
ぶつぶつ文句を言いながらも鞄に仕舞い込んでくれた。
試験の締め切りまであと10分。もう行かなければならない。
カレンの祖父に案内されたのは、寝室のクローゼットであった。
もしこの家でかくれんぼをしたらカレンは真っ先にこの中へ隠れるだろう。
隠し扉などはないようなので、原作のようにエレベーター式になっているのかも知れない。
シャルナークに先に入るよう背中を押し、「先に行ってろ」と書いた紙を渡した。
げ、と顔を顰めながらも、後で絶対に来るようにとの約束に頷いたことで納得してくれた。
クローゼットの扉が閉まり、エレベーターの稼動音がどこからともなく響く。

「世話になった。ありがとう」

カレンの祖父を振り返り、久しぶりに喋った。
紙に書いたことだが、やはり口で伝えたいという思いが強かったのだ。
彼はシャルナークのような黒い笑みではなく、「お祖父ちゃん」の顔で笑った。

「またいつでも帰ってきなさい」

待ってるよ、と頭を撫でられる。
いつもであれば殺意が沸くのだろうが、今は気分が落ち着く。
を撫でると気持ちよさそうに目を細めていたが、こんな気持ちなのだろうか。
ここでさようならとか言われなくて良かった。私はあの手紙に確かさようならと書いた。
会う気はあっても、本当に会えるかは自信がなかったのだ。
もしかしたらもう会えないかもしれないと言う思いがあった。
だが、これで別れの言葉は決まった。さようならと言わずにすんで良かった。

「そうだ、これを持っていきなさい」

唐突に、目の前へ何かが差し出される。
反射的に受け取り、それが鞘に入れられたナイフであることが分かった。
おそらく護身用に持っていたものなのだろう。
この人にしてはとても小振りな物であるが、私が持つと大振りである。
しかし果物ナイフよりはきっと役に立つだろう。
腰に忍ばせていた果物ナイフをカレンの祖父に渡し、それを腰のベルトへ挟んだ。
なんだか強くなった気がする。気がするだけだが。
ありがとう、と礼を言い、戻ってきたクローゼットの中へと私も身を潜らせる。
扉が閉じられる直前、手を振りながらまた来ると気持ちを込めて、言った。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

同じように手を振って笑顔で送り出してくれる。
これは今世の別れではないのだ。そう言い聞かせて、鼻の奥の痛みをやりすごした。
扉が閉じられ、先ほどよりも近くに聞こえる稼動音を耳にしながら、寄り添ってくるの頭を撫でた。

 

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