私には小さな夢が海ぶどうのようにある。
本当にちっぽけなものばかりであったが、雑誌で美味しそうなケーキを見つけて
友人と、行きたい、行こう、連れてけ、え、連れてけ、ふざけんな、そんな話に発展できるような夢だ。
初めて見たときはその独特の形にグロさを覚えたそれのような夢の中には、
ホットケーキを3段以上重ねて食べるという体重増加の原因であるものも含まれている。
あー食いたいと授業中に何度思い返し、何度ホットケーキを夢見ながらコアラのマーチを頬張っただろう。
一度は叶えてみたいものだと思いながらも財布と相談するたびに断念していた。
もちろん叶えばそれはそれは嬉しいだろう。ナイフを使わずフォークだけで齧り付くほど嬉しい。
しかし。しかしだ。ホットケーキというものは1枚だけでも十分腹が膨れるものであり、
何より物足りないと思うくらいで食べるのをやめるから美味しいのだ。
実際問題そんなバターとシロップのかかった甘いパンケーキを3枚も食うとなると胃がもたれる。
だから私のこの異常な雰囲気と汗を感知して未だフライパンを振り回し続けるその手を止めては
くれないだろうかと、鼻歌混じりの背中を見つめたが、虚しくも願いは届く前に空気中へと吸収された。
人の願いというものはいつの時代も儚いものであると詩人のように語ってみるが、
そんな爽やかな印象を塗り潰すように私の心情は「神奈川県沖浪裏」の如く荒立っていた。

 

ミスマッチ11

 

白兎を消した後、私はふらふらと壁にぶつかりながらリビングへ向かった。痛い。
がたぶん心配して背に乗れと言ってきているのはわかるが、それは私の足腰に対する
挑戦かと思ってしまったため無視した。
5メートルもない廊下の壁に3度も体をぶつける私も悪いがそんなことは関係ない。
すこし意地になっている感も否めないが、こうなったら最後まで突き通してやる。
そんな決意を心で呟いた瞬間リビングについた。私は勝ったのだ。何かに。
リビングには難しい顔をして組んだ両手の上に顔を乗せている少女の祖父がいた。
手術室の前で結果を待っている男性そのものである。
しかしすぐに私に気付き、先生孫の容態はどうですか、な感じで近づいて来た。
がしりと私の両肩を掴み、怪我はないか、と聞かれる。
お前私よりも孫の心配しろよと思ったが、あまりにも必死だったので終わったと意を込めて親指を立てた。
目と口を開いたまま細く長く息を吐きだし放心状態に入った男性の顔を見て私も気が抜けていく。
ゆっくり瞬きをしようと思ったが、目を閉じた後にもう一度目を開くことはできなかった。
視界に黒い幕が下ろされた状態で、意識もだんだんと遠のいていく。
平衡感覚がなくなりぐらりと体が傾いていくのを感じながら、眠りに落ちた。
床に激突することなく、この数日間抱き枕の役目を果たしていた毛皮に受け止められたことだけはわかった。


そしてまたもや生まれたてのパンダ並みに睡眠時間を手に入れた私は、親子の感動の再会を見逃したのだ。
私が死闘を繰り広げ眠ったのは夕方。それから14時間たとうが今はまだ早朝。
活動的なのは乾布摩擦が趣味の老人くらいだと思う。
あの後、私の寝室として宛がわれている部屋に移してくれたのか、起きたての視界には見慣れた天井が映った。
人の顔のように見えてくる天井のシミにも慣れた。たぶんあれは金魚のフンのようなシミだ。
ぬくぬくとした布団に包まり続けていたが、長時間寝ていたせいで腰が痛い。
とりあえず体を伸ばすために布団から出た。も一緒に起きて伸びている。
部屋に備え付けられた窓を開け放ち外の様子を確認した。良い天気だ。
鳥のピーチクパーチクいっている鳴き声を聞きながら着替える。
早朝の清々しい空気に感化され、うろ覚えのままラジオ体操を始めてみたが、なぜかループし出したので早々に止めた。
あんなに深呼吸は多くなかったはずである。
布団の上で二度寝の体制に入っていたを噛みつかれやしないかと不安に思いながら
叩き起こし、外へ行こうと持ち出したのは2時間ほど前の話。
近所の散歩、という形ですぐに帰ってきたときにはすでに少女の祖母が起きていた。
ちょうどエプロンを付けていた所で、これから朝食の用意をするようであった。
すぐ後に少女の母親も登場し、私は抱きしめられながらお礼を言われた。
何のことだと思ったが、どうやら少女のことを言っているらしい。
どうやら少女の祖父から事情を聞いたようだが、しかし念も知らない一般人が
まさかこんな子供の私が治したのだということを本気で信じているのだろうか。
疑いの眼差しを向けてしまったが、その目はとても嬉しそうだったのでどちらも良いかと自己完結させた。

「今日はお祝いだから、あの子の好きなホットケーキを作るわ」

気合十分、というように腕まくりをし始めた少女の母親と祖母に、
自分の小さな夢がここにきて叶うかも知れない、なんてちょっと浮かれた自分を殴りたい。
そして事は冒頭へと戻り、私は2枚半食べたところでギブアップした。
私の横では未だカレンがナイフとフォークを上手に使いホットケーキを口に運んでいる。
次々と飲み込まれていく様をこいつの将来はホットケーキだなと密かに思いながら見ていたが、
そんなこと口に出そうものなら今食ったホットケーキを吐かされかねない。
それは勘弁願いたい。

カレンは目がくりくりしていてとても可愛い少女だ。
輪郭や顔のパーツなど、全体的に母親似だと思う。
ただ表情のあどけなさや笑い方は父親に通ずるところがありそうだ。
喜怒哀楽をたぶん素直に出せるだろう子供らしい子供。
私から見ても首を絞めたくなるほど将来を期待できる少女だ。
いやこれは決して妬みとかそんな負の感情ではない。断じて違う。
ようやくホットケーキに満足したのかナイフとフォークを持った手を止め、皿に置いた。
にこにこしながら家族と喋っている。
少女は起きた時、やはり自分が1年も眠っていたと知らなかったようだ。
いつも通りにおはよう、とリビングに姿を現し家族に驚かれて事態を知ったようである。
しかし肝が据わっていたのかあまり深く考えないのか、あまりに気にしている節はない。
将来大物になるのか、はたまた子悪魔となるのか。見物である。
家族の会話を小耳に挟みながら、窓の外を眺めた。緩やかに風が通り過ぎ、葉が揺れている。
これから私はどうしよう。
とりあえずの目的「人に会う」ことは叶って西暦もわかった。
しかし行く所がない。もともと私はこの世に存在しないのだから当然である。
世界を旅してみようなんて気力も金もやる気もない。
また森に戻って野生児暮らしに戻ろうか。あの暮らしはなんだか性に合っていた感もある。
うーん、と珍しく優柔不断に迷っていると、隣から元気な声で名前を呼ばれた。カレンだ。

ちゃんは新しい家族?」

鈴が鳴るような声色でさらりと言われたその言葉に、あまりに驚いて咽そうになった。
幸い紅茶を口に含んでいなかったので、それを噴き出してに浴びせてしまい怒り狂われ
一家惨殺事件が発生し明日の朝刊で報じられることを防ぐ事ができた。
それよりもこいつ今なんと言った。
どういう思考回路をしていればそのような結果に辿り着くのだ。
お嬢ちゃんの頭は迷路屋敷ですかと聞かないだけ私は温厚である。
固まったまま私の思考回路が迷路に迷い込んだ隙に、向かいに座っていた少女の祖父が話しかけてきた。

「どこか行く所はあるのかい?」

心配そうな色を含みながらも、こちらの出方を慎重に見極めようとしている空気が伝わってくる。
冷めたクリームシチューの表面に張った膜のような雰囲気に、そういえば私はどう思われているのかと
今さらながら少し疑問に思った。
あまりにここの家人が優しくしてくれるものだから忘れていたが、私はあの流星街に続く森からやって来たのだ。
流星街出身、というだけで畏怖されるというか「面倒事」として扱われるだろうに、ここの人は良くしてくれる。
たぶん少女と少女の祖父の命を救った恩人と思われているのだろうが、私としてはそんな大層なことを
しているとは言い切れないのだ。
それは一重に「助けよう」という気持ちばかりではないことを起因として行動したからである。
少女の祖父を見つけた時は街に、人に会うことを第一優先としていた。
少女の念を払った時は、私の念能力を試しておこうという思いが半分はあった。
世間や外側から結果を見て言えば、これはきっと大業を成したことだろうが私にその自覚はない。
むしろ感謝されるとなけなしの罪悪感がうずくばかりである。
そんな私だけが知り得る情報のもと、葛藤しながら返す言葉を考えたが、実際行く所はない。
しかしだからといってここで世話になるわけにはいかない。
この家だって経済的な面もあるだろうし、世間体だって気にさせるかもしれない。
あまり迷惑はかけられないだろうな、とそこまで考えが至り、嘘をついてでもここを出ようと思った。
首を縦に振り、行く所があるのだと伝える前に、もう一度男性が口を開いた。

「ここに、住むといい」

その言い聞かすような、落ち着いた声だけが直接耳に届いたような錯覚を覚える。
外でさえずっていた鳥の声も、風の音も、少女が足をぶらぶらさせたまに踵が椅子に当たる音も、
すべてその声の裏側で遠く聞こえていた。鮮明なのは男性の声のみである。
とても有難い申し出ではあるが、頷きにくい。
居候として住んだとしても肩身が狭いし、この人らだってせっかく少女が目覚めたのに
私がいては水入らずの家族団らんは難しいだろう。
首を横に振ればいいのだが、そこで突っ込まれた質問に答えられる自信がない。
せめて辻褄を合わせるだけの考える時間が欲しい。
必死に頭の中で納得させる言い訳を探してみるが、ちょっと混乱していてまとまらない。
かなり長い時間、沈黙がこの空間を支配しているが、その間も私にじっと視線を向け続けている
少女の大きな目が痛い。子供の目ってどうしてこんなにも真っ直ぐなのか。
純粋な赤ん坊の目を真っ直ぐ見れない人はやましい事があると言われるが、
私は断言しよう。やましい事はある。
それは誰にだってあるだろう。むしろない方が私としては怖い。
思考が捻れ考えることを放棄し始めたのを理解する前に、頭に圧力がかかった。
少女の父親の手だ。
顔は童顔なのに手は大きくてしっかりとしている感じがする。

「2人目の子供だ」

もし私に家族がいて、そこが帰るべき場所だったらどうするのだろうと心配になるほどに、
私には行く場所がないことが当然の如く断言されている。
頭に乗せられていた手で多少乱暴に掻き回され、ぼさぼさになる。
しかしそれに殺意を湧かせるよりも、体から力が抜けていくように緊張が解けていく。
小さく、気付かないかもしれないほど小さく頷き、私は家族と言うよりも居候として居座ることを決めた。
クリームシチューに火がかけられ、張っていた膜が消えていくのを感じる。
隣で大人しくしていたが1度吠えた。

「2人目の子供と、初めてのペットだな」




***




それから時は過ぎていきなりだが半年以上たった。
私はいまだ少女の家に居候として住まわしてもらっている。
その間元気良く遊びまわるカレンに私はよく連れて行かれた。
こいつ黙らせてやろうかとちょっと本気で思ったことは数知れず、実行に移したことは1度しかない。
私の忍耐力と子供の扱い方はスキルアップした気がする。なんていらないスキルだ。
この半年で、少女の母親は笑顔で怒ることとか、少女の父親は音痴だとか、
少女の祖母はこの街で1、2を争う早編みの達人だとかいろいろわかったが、何より驚いたのは
少女の祖父がハンター協会の要人と知り合いであったことだ。
名前を聞いてみたが、知らない名前だったので原作では出てこなかった人なのだろう。
世界は広いが世間は狭いのかもしれない。
私とハンター協会というものは決して身近な存在ではないけれど、こんな念もハンターもいないような
平和な街でそんな人間と遭遇するとは驚きである。
そもそもこの少女の祖父はある会社のお偉いさんのようなのだ。
念が使えたりハンター協会要人の知り合いであったり会社の取締役であったりと謎な人物である。
そしてそんな少女の祖父から2分前に言われたことはこれだ。

「ナビゲーターの役目を買ってくれないかい?」

もうすぐハンター試験があるのだと言う。
ナビゲーターの役目は原作で読んでいるから知っているが、ナビゲーターって確か受験生を試すような
こともしていた気がする。振るいにかけて、頭の悪い奴、弱い奴は試験会場すら踏ませない。
"案内人"としてただ目的地まで連れて行くのならまだしも、私に受験生の何を試せと言うのだろうか。
別に嫌ではないのだ。カレンに連れ回されて疲労骨折しそうになる思いもしなくて済む。
だが試すとなると私だって多少命の危険に晒されたりするかも知れないのだ。
この人はそのことをわかって言っているのだろうか。
いや、でも私が試す必要はないのかもしれない。に頑張ってもらえれば。
ちらりと私が横に視線をずらしを見れば、何を察知したが唾を飲み込んだ。
大丈夫、そんなに危険なことじゃないさ。そんなに。という思いを込めて頭を撫でる。
少女の祖父の目をまっすぐ見上げ、私は是の意志を示した。
ありがとうとにこにこ笑うこの人は、将来絶対に好々爺になりそうだ。
ナビゲーターとしての役目を律儀に説明してくれているが、知っていたので右から左に流す。
とりあえずルートだけを確認し、あとは自由にやってくれて良いと言うことだ。
なぜ私のような子供に託すのかと疑問に思ったが、そういえばこいつは念を知っているのだった。
この数ヶ月、まったくそのような話題を出さなかったので忘れていた。

試験の開始時間はなぜだか夜8時。20時である。全員集合的なあれだろうか。
試験会場への受け入れを開始するのが12時間前らしいので、私は同日の朝7時くらいから
スタンバイしていなければならない。とても面倒だ。
決行日は2週間後。寒空広がるお正月だ。
それまでに簡単までも何かしらの試練を用意しておかなければならないなと、を見ながら考えた。


 

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