開けた視界には空しかなく、足もとに広がる木の海は壮大であった。
崖っぷちに立ち石をガラリと崩しながら格好良く広がる大地を覗けたら良いのだが、
あいにく私は平衡感覚が優れているわけでもないしまだ死にたくもないのだ。
崩れる心配のない崖から数メートル離れた場所で木に掴まりながら
さてこの後はどうしようかと、下を覗き込んでいるの背を見ながら思った。
いや決してその背を押してみようと思ったわけではないのである。断じて、違う。

 

ミスマッチ06

 

滝が水を叩く音に聴覚を支配されながら人生初の水浴びを経験した私は、
水を飲みにきた熊と視線を外さないようにしながら素早く服を着て逃げてきた。
まったく油断も隙もあったものじゃない。
しかしが反応しなかったから腹が減って私を襲う気などなかったのだろう。
でも心臓に悪かった。初日に会った熊と同じ種類に会うなんて運が悪い。

熊から少しでも早く離れようとには走ってもらった。
ワカメ以上に私の体は激しく上下に揺れたが落ちることはなかった。
だがもちろんのこと走り出して3分ほどで私の胃の中はシャッフルされたのである。
そうか、こんな殺され方というか半殺しというか嫌がらせの仕方があったのか。油断した。
の背でぅおえ、と声を漏らしたところで気付いてくれたのか速度を落としてくれた。
ありがとうと言うべきなのかこんちくしょうと耳を引っ張るべきなのか私には判断がつかない。
とりあえず口を引っ張っておいた。鋭い歯が剥きだしになった。後悔した。


酔いを醒まそうと揺れよりも遠くの方を見ることに集中していると、いつのまにか川辺から離れていたことに気付いた。
あれ、と思っての頭を軽く叩いてみるが、上目遣いに少し見られただけで歩みを止める気配はない。
無視ですかと問いかけたくなるがの鼻がヒクヒク動いているのに気付き、
とりあえず様子を見ようとそのまま歩いてもらった。
そして見えてきた、いや、見えなくなってきた地面に慌てての毛を握り締める。
それでもその崖に向かって歩き続けるに、やばい落とされると思っていたが
歩みは1歩手前で止まったおかげで手に汗握るだけですんだ。

そこから見えた景色は地平線まで続く木の海であった。
まったくここはどのような島なのか、進んでも進んでも木ばかりである。
そろそろ人を探すのをやめて生肉を食らう野生児になるべきかと思っていたが、
が見つめている方向に目を向けてみると、そこには開けた大地が存在していた。
それは小規模ながらも人の住む街のようで、ところどころには背の高い建物が見えた。
あまりの衝撃に言葉を失い、信じられない思いで遠くにある街を見つめ続けた。
息をするのも忘れ、これは夢ではないことを頭の中で噛み締めながら状況を飲み込む。

やっと見つけた。
人の住む場所だ。

流星街なんて場所ではなく人々が普通の生活をしているだろう街である。
ようやく見つけた確かな道に気持ちが高揚する。
毅然とした心持で射抜くように街を見つめていたが、ふと自分の立つ位置を改めて理解して
限界まで膨らんでいた気分は風船のようにしぼんだ。
いつまでもこんな所に立たれては私の寿命が削られていく。
数歩下がってもらってから下りた。
かろうじて街を見つめられる場所で木に掴まる。怖い。
断崖絶壁というよりは急な斜面といった方が正しいのだろうが転がったら助からないのは一目瞭然である。
ところどころ出っ張りがあるが乗れば絶対崩れるだろう頼りないものばかりだ。
下を覗き込みながら尻尾を揺らしているがそのまま飛び降りそうで冷や冷やした。

あの街に行ってみたいがこの崖を下りなければならないのだろうか。
左右を見渡してみるが、どこまでもこの急な斜面が続いている。
あのまま川沿いに歩けばいつかは緩やかな坂に着くかもしれないが、
それではあの街を見失う可能性もあるし、滝が存在してどちらにしろ降りられない可能性もある。
しかしだからといってこの斜面を下りるのは自殺と大差ない行為だ。
いくら高所恐怖症の気がなくてジェットコースターが好きだとしても、それは安全性が確保されているから
言えることであり、こんな命綱があったって死にそうな崖はご免被る。
少しずつ斜面に歩み寄り、のすぐ後ろで止まりもう一度覗いてみる。
飲み込まれそうに視界がぐらりと揺れて鳥肌が頭の天辺まで起こった。
やっぱり駄目だ諦めよう私はまだ若いと捲くし立て踵を返そうとしたが、その前にが私に近寄り
体を擦り付けてきた。
とりあえず私も落ち着こうとのするままにさせていたが、やがては私の前で腰を下ろした。
無言の間が流れ、この光景は見たことがあるなと感慨深げに思った。
あれだ。流星街に行く前、森の中でが起こした行動そのものだ。
背中に乗れと言っているのは十分わかっており、通常であれば躊躇いなく跨っただろうが
しかしここは崖のすぐ近くである。
がこの後どのような行動を起こすのか嫌々ながらも私の第六感というか
一気に下がっていく血の気がまざまざと伝えてきている。
笑みって本当に引き攣るんだねという事実をこんなところで知りたくはなかった。

いつまでも動かない私に焦れたのか、がもう一度私に体を擦り付けてくる。
これはあれか、大丈夫だと訴えているのだろうか。
もし大丈夫だと本当に訴えているのであれば今すぐこの崖から離れて安全地帯に
連れて行ってくれたほうが私としては限りなく安心できるのだが。
そう目を見て訴えてみても返ってくる黒い瞳は揺らぎはしなかった。
こいつってこんなに強情だったかと思いながら、三度崖の下を覗いてみる。
人生何事も経験だよね、と兄の決まり文句が聞こえてきたが、その経験のせいで
友人にステーキを奢るはめになっていた奴が言っているのだから信用できない。
昔々どこぞの戦で、馬に乗りながら崖を降りたものがあったのを思い出す。
鹿にできてなぜ馬にできないのか、という理不尽極まりない文句を言ったことが
全ての始まりだった気がするが、勉強などお粗末だったので詳しいことは憶えていない。
鹿にできて馬に出来ないのは体の構成じゃないですかと助言してやりたい。
結果的には馬も崖を降りる事が可能であって勝利したらしいが、こいつは犬だ。
馬や鹿とは筋肉の付き方とか諸々違う。はずである。
もののけ姫の映画では山犬が飛び降りるシーンがあった。しかしそれは映画である。
実際無理だ。絶対無理なのだ。

先ほどから私の横でまた腰を下ろしているの目を見てやめませんかと敬語で聞いてみたが、
返事は自信ありげな鼻息一つだった。
本当は私の言葉など一切理解していないんじゃないかと思えるほど意思疎通ができていない。
…もういい。もういいよこんちくしょう。やってやろうじゃないか。
そこまで大丈夫だと言うのなら信じてやろうじゃないか。
私は異世界トリップという奇跡体験をしたのだ。こんな崖などへっちゃらだ。

少々涙が浮かびそうであったがそれらをすべて殺意に変えて自分を奮い立たせた。
これは決して自棄などではない。を信じる私の優しい心が導いた結果なのだ。
私も鼻息一つ盛大にならすと、にゆっくりと跨った。
心臓が煩いくらいに鳴っているが、もしかしたら5分後には止まっているかも知れない。
そう思うとなんだかこの煩さも許せる気がした。
が小さくワンと鳴く。行く合図だろう。
私は体をに密着させ腕をその首に巻きつけた。
苦しいとかそんな苦情は聞かない。聞く余裕がないのだ許せ。
私が大きく深呼吸してからぴったり3秒後、は一歩前に出る。
崖のぎりぎり淵に立っている。がらりと石が転がり落ちた。
あぁ私もあんな風になるのかと諦めが浮かんだがの鼻息と共に覚悟を決めた。
ここで目を瞑ったら怖さは倍増する。
何が何でも目を開けたままにしてやると決意を固め、にいいよと許可を出した。
ふわ、と体が浮いた直後、風圧が体全体を支配した。





ずん、と地響きにも似た音と振動を起こしは着地すると同時に大きく前へ跳んだ。
直後に聞こえてきた盛大な音は、崖から転がってきた2メートルはありそうな岩であった。
あまりの衝撃と恐怖と安堵感で固まり続ける私をが心配そうに見上げてくる。
それに反応を返す余裕もなく、とにかく地に足を付けたいと下りてみたが、
腰が抜けたのか立つことは叶わなかった。
力なく座り込む私に頭を擦り付けてくるの頭を撫でてやり、ようやく息を大きく吐いた。
生きてるって、素晴らしい。


もう本当に涙が出そうになったが深呼吸を20回繰り返して無理やり落ち着かせた。
しかし足が震えているのは相変わらずなのでの背によじ登りぐったりと体を預ける。
あの崖を飛び降りて、すぐには出っ張っていた岩に足をつけた。
だがすぐにその足場も崩れる。
それに抗うこともせず崩れるままに落ちて、その下の死角にあった岩場へとまた着地する。
崩れる、今度はジャンプして眼下にあった小さな出っ張りへと着地する。
それらを繰り返し勢いを殺しながら下まで辿り着いたのである。
何度舌を噛みそうになったことか。
必死に食いしばり耐えた。その代わり衝撃をすべて歯が吸収していたから少し痛い。
でも被害と言えばそれだけだ。これも奇跡と言えるだろう。

浮遊感がまだ体を蝕んでいたが、その度にの毛を握り締めて息を吐いた。
には街があった方角に歩いてもらっている。
周りにある木はつい先ほどまでいた崖上の常識外なものではなく普通の木であった。
見たこともないが美味しそうなオレンジ色の果物が生っている木もある。
今はもう食欲も気力も底尽きていたのでまったく食べようとは思わなかったが、
機会があれば一度は食べてみようと心に決めた。少し元気が出た。

ようやく気分も良くなり気持ちも落ち着いてきた頃、今度はどんな災厄かと思えるように
林の中で倒れている人を見つけた。
人だ、と感極まって飛びつきたかったが何だか様子がおかしい。
山菜を摘みに来たのかその背には籠が背負われており、そこから草が飛び出していた。
ピクリとも動かないそいつにこれはやばいかも知れないと慌てて近寄る。
年の頃合は50代か60代の男性であった。
とりあえず息をしているか確認してみる。
弱々しいが、生きてはいた。しかし肌が冷たいし顔色も悪い。
意識があるのか確かめようと頬を軽く叩きながら大丈夫かと呼び掛けようとしたところで、
ふいに頭へ流れ込んできた光景に一切の音が途絶え私の意識はそちらへ向けられた。


これはあの洞窟の中で見た夢だ。
誰かに呼び掛けている夢。
目の前には目を瞑り横たわっている人がいる。
口からは血を流し、死んでいる事が伺えた。
そして何より私を驚かせたのはその人物が見知っている人であったからである。
パクノダだ。私が夢の中で語りかけていたのはパクノダだった。
なぜ、と思うと同時に膨大な情報も洪水のように、あるいは走馬灯のように頭を占めた。
整理する暇もなく次々と流れ込んでくる情報に、ズキズキと頭が悲鳴を上げ始めた。
眩暈がしそうなほどの痛みに襲われたが、頭を抱え込み痛みが去るのを蹲って待った。
ずっと続くのではないかと思われた頭痛も、それほど時間はかからず余韻を残しながら治まった。
すべての情報を詰め込まれた脳は疲れきっており私に睡眠を貪るよう勧めてきていたが、
ふと倒れたままの人物が目に入ったことでやるべきことを思い出す。
そうだ、こいつを助けなければ。
助けるといっても私に医学の心得は露ほどもないが、しかしこの男性は歩いてここまでやってきたのだ。
あの街が近い可能性が高い。急げば間に合いそうだ。

男の体を必死こいて持ち上げての背へと乗せた。
重いだろうなとは思ったが、状況が状況だ。助けるにはの協力が必要不可欠である。
もそれを承知しているのか嫌な声一つ漏らさず歩き始めた。
陽が傾き始めている。
崖の上から見た街は西の方向だったから、このまま太陽に向かって歩いていれば恐らく街に着く。
男性の状態からして急がなくてはならないのかも知れない。
先ほども言ったように私に医学の知識はない。しかしだからこそ焦るのだ。
もしかしたらただの風邪かもしれないが、違うかもしれない。
一刻を争う病気であったらと思うと自然と歩みは速度を上げた。
見も知らぬ人であったが、見捨てるほど私は人情を捨ててはいない。
それにようやく見つけた一般人なのだ。死なれては後味が悪すぎる。

先ほどの激しい頭痛のせいで鉄の帽子を被っているように頭が重かったが、
街に着くことだけに集中した。
こんなに必死に助けようとしているのは、先ほど思い出した夢のせいであるのかも知れない。
死んだパクノダに語りかけたあの夢。
そこでパクノダに呟いた一言は、反則だろうと思うような都合の良い「発」であった。
 


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