体がだるい。
寝返りを打とうと思っても動かない。腕が重い。
そんな不自由さに反応して頭がだんだんと覚醒してくる。
薄っすらと開けた視界にまず入ったのは、見慣れない白い天井だった。


部屋全体が白く、サイドテーブルには綺麗な黄色い花が生けられている。
部屋全体の雰囲気、ベッド脇にある点滴道具から、病室であることが分かった。
一人部屋で他に入院患者はいない。
しばらく呆けながら何が起こったのか思い出している内に、看護士が見えた。
私の腕に繋がっている点滴の交換をしに来たようで、手には透明な液体の入った
袋を3つ携えている。
私と目が会うと驚いた顔をして小走りで近寄り、気付かれたんですね、と笑顔を見せた。
何が起きたのか尋ねてみると、森の中で倒れていたのだと答えが返ってくる。
そうだ、思い出した。
孫の病態をなんとか改善しようと薬草を探すために森の中へ入っていったんだ。
それらしき草は多少見つかったものの、森から出られなくなった。道に迷ったのだ。
なんと情けないことかと、担ぎなれない籠を背負い直しながら歩いていたが、
とうとう力尽きて意識が暗くなっていったのを覚えている。
しかし誰が。いったい誰があの森の中で私を見つけてくれたのだろう。
その疑問を口にする前に、ノックと共に、病室へ息子が顔を出した。


どうやら私が森から助けだされてから1日が経っていたようだった。
息子に笑顔で怒られたあと、誰が助けてくれたのかを聞くと、思いもよらない答えが返ってくる。

「それが、街の誰も知らない子供なんだ。大きな黒い犬を連れていた」

私はその黒い犬の背中に乗せられて森から出てきたのだと言う。
なんとも信じがたい言葉だ。あの森から子供が出てくるとは、つまり、そう言うことだろう。
流星街。
昔からそこに繋がっていると、噂のように語り継がれてきた。
あの森は深く、足を踏み入れたら容易には出てこられない。私が良い例だ。
そんな森の中から見知らぬ子供が出てきたことで、街は表立ってではないながらも、騒然としたらしい。
更に驚いたことに、今その子は家にいるという。礼をしたいということで息子が招いたようだ。
名前は。聞くと、どうやら以前孫を助けてくれた薬師の青年に雰囲気が似ているらしい。
あの時、満足なお礼も出来なかったことを悔いているようで、あの子にはきちんとした礼がしたいのだそうだ。
特に危険なことも奇怪な行動もなく、拍子抜けするくらい普通の子供らしい。
ただ、一言も喋らない。表情も変わらない。しかし敵意はない、不思議な目をしていると。
どうにも想像しにくい事実が家の中で進められているらしいが、息子は終始笑顔のままだったから、
本当に危険はないようだった。


「今はカレンの部屋にいる。なぜかずっと部屋に引きこもっているんだ」

私には外傷もなく、食欲も旺盛で、健康ではあったが念のため、そのままもう2日入院を言い渡されてしまった。
息子は家に戻り、消灯時間が過ぎた暗闇の中、先ほど去り際に息子が言った言葉が気になっていた。
カレンの部屋に篭っている、子供。
それを聞いて思い起こされるのは、初めて見た、具現化された兎の姿だ。
時おりカレンの部屋から言い様のない嫌な感じがしたので、凝をしてみたら、いたのだ。
悪意のある、念が。
ぼんやりとしか見えなかったが、そのおぞましさは異常だった。
あれがいるカレンの部屋にずっと引きこもっている子供。
…可能性は、あるだろうか。
その子も、という子も念が使えるという、可能性は。


次の日も見舞いに来た息子に、さり気なくその子のことを聞いてみる。
やはり今日もカレンの部屋にいるらしい。何をしているのかは分からないそうだ。
それでも「行ってきます」と声をかければ手を振るし、「ただいま」と言えば手を上げる。
とても印象の良い子で、やっぱり危険はなかった。
そう近所の人にも言っており、危険な子ではないことを示しているようだ。

「今日も手を振ってくれたよ」

嬉しそうに言っているから、私も息子の言うことを信じようと思う。
なんだかこちらまで笑顔になる顔だ。
助けてくれたのであれば、私からも何かお礼がしたい。
そう思い、懐に入っていたお金を息子に手渡し、裸足で森から出てきた恩人に靴を買って欲しいと頼んだ。
息子は快く了解してくれ、病院を後にした。


入院してから3日目。ようやく退院することが許された。
昼に息子が迎えに来ると言っていたので、身支度を済ませて待つ。
あの子も、連れてくると言っていた。私の命の恩人と再会だ。
しかしそれ以上に、今私には確かめたい事がある。念能力者であるのか否か、だ。
もし念能力者であるなら、カレンの側にいる兎のことを知っている可能性がある。
知っているのであれば、もしかしたら治すことも…。
いや、だめだ。止めよう。こんな楽観視は自滅を招くだけだ。除念師はとても希少だと聞いている。
それでも、その期待が頭の中から離れず、付き纏っているままで、とうとうその子を連れた息子が現れた。
緊張しながら駐車場へ行ってみると、そこには息子の言ったとおり、大きな黒い犬を連れた
無表情でも敵意のない澄んだ目をして、綺麗な纏をしている子供が立っていた。

帰りの車の中、話しかけてもやはり返事はなかったが、しっかりと目を見つめ、相槌は打つ。
兎のことを、聞いて、みようか。手に汗を握りながら、考える。
その期待が外れたらと思うと怖くて言葉が詰まってしまう。
しかしここで聞かなかったらもっと後悔をする。チャンスを逃がしてしまう気がする。
そう自分に言い聞かせ、運転をする息子へ、車を止めてもらうよう頼んだ。
声は震えていなかっただろうか。強く言い過ぎていなかっただろうか。そんな心配ばかりが渦巻く。
ちゃんと一緒に公園へ行ってみると、幸いなことに誰もいなかった。
ベンチへと腰掛け、風が木の葉を揺らす音を何度となく耳にする。
倒れるかもしれないと心配になるほど心臓が煩いほど鳴っており、手が震える。
けれどずっと無言でいるわけにもいかない。
大きく、深く呼吸をして、話を切り出した。


家に着くと、さっそくちゃんはカレンの前を陣取った。
念を発動するための制約をクリアするための行動なのだそうだ。
あの公園で聞いた、この小さな子の言葉は、とても強く大きなものだった。
その言葉にどれほど安堵したことか。どれほど感謝したことか。
次から次へと溢れる涙を抑えることもできず、ただその小さな手を握り締めた。
大丈夫だと言ってくれた声も、子供特有の高く澄んだ、しっかりとした不思議な声で。
やっと涙が止まった時は気恥ずかしい思いでいっぱいだったが、清々しくもあった。
無表情ながらも相手への気遣いが垣間見えるこの子がまさしく光に見えた。
目の前で少女の念がカレンを覆うのを見ながら、ぼんやりとそんなことを思う。
ふと手に持っていた人形を思い出す。
息子が私たちと別れた後、おもちゃ屋に行って買ってきた人形だ。
部屋にたくさん飾られた人形を見て、カレンは喜んでくれるだろうか。
喜んで、今でも鮮明に憶えているあの笑顔でまた笑いかけてくれるだろうか。
すべてを少女に任せるしかない不甲斐なさに苦笑いしながら、その人形をベッド脇にある本棚の上へと、
他の人形のように並べて置いた。
黒い目をした、ウサギの人形を。




森の中に建設された小屋の中で、この数ヶ月間を思い出す。
ちゃんを家族として迎え入れ、一緒に生活をした。カレンとよく遊んでいる。
と言っても、カレンがちゃんを連れまわしているように見えたが。
あの黒い犬、もカレンの良き遊び相手になってくれているようだった。
カレンも相手だからといって乱暴な扱いはしない。元気だが、心優しい子だ。
ちゃんに宛がわれた客室も家具で埋まり、以前のような風通しの良い部屋ではなくなった。
娯楽品の少ない部屋であるが、どうやらそれで満足しているようだ。
ホットケーキもカレンとよく食べている。孫が2人、並んでホットケーキを食べている図はとても和やかだ。
そして2週間前、ちゃんへナビゲーターの話を持ち出した。
すんなりと了承してくれたことに安心し、今はきっと小川で受験生を待っていることだろう。
危険が付き纏う仕事ではあるが、あの流麗なオーラを見る限り、とても強い。もいる。
でもきっと小川は寒いことだろう。可哀相なことをした。
ナビゲーターの仕事が終わったら、暖かい紅茶を入れてあげようと心に決めて、試験受け付け終了間際に
なってやってきた受験生を迎えるべく、ノックされたドアを開けた。


受験生と共に小屋へと入ってきたちゃんが手渡してきた手紙には、これからこの金髪の青年と
ハンター試験を一緒に受けてくる旨が記されていた。そして感謝の言葉と、別れの言葉。
ズキリと心が痛んだ。心臓を鷲掴みにされたような痛みが走った。
この手紙に書かれたことは本当なのか聞いてみたが、頷きが返されただけだった。
他の人もここにいるのだから声を出さないのは理解しているが、それでも声が聞けないのは寂しい。
だが冗談や軽い気持ちでこんな行動にでる子でもないことはよく分かっているつもりだ。
きっと何か考えがあっての行動なのだろう。そうであれば、私に止める権利などない。
試験受け付け終了はもうすぐ。急いで台所へと篭り、久しぶりに包丁を握る。
慣れない手つきで野菜を切り、簡単なサンドイッチを作った。材料があるだけ、時間の許す限り。
大量のサンドイッチを2つに分け、青年とちゃんに渡す。
それを鞄に仕舞いこむのを待ってから、試験会場入り口の寝室へと案内した。
クローゼットの扉を開け、ここが試験会場への入り口であることを説明する。エレベーター式だ。
まずは青年が身を潜らせる。
そのままちゃんも入っていくのかと思いきや、紙を青年に手渡し、先に行かせてしまった。
良かった、なにも言えずに見送らなければならないのかと心配した。「さようなら」なんて言う気はない。

「世話になった。ありがとう」

エレベーターが稼動して地下へ潜っていく音を聞き届けてから、ちゃんは振り返り言った。
撫で慣れた頭を、確かめるように励ますように、いつものように撫でる。
ふと腰に掛かっている重みを思い出し、それを渡した。
これからは命を落とすかもしれない危険な道を行くことになるのだ。
代わりに果物ナイフを受け取る。ちゃんが持つと大振りなナイフだが、使いやすい。
きっと大丈夫だ。

「ありがとう」

いつものように無表情だが、穏やかな空気が伝わってくる。
踵を返して戻ってきたクローゼットへとその身を潜らせた。暫しのお別れだ。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

手紙通りの別れでなくて本当に良かった。行ってきますと言ってくれて良かった。
小さく振られる手に応えるよう、私も手を振る。帰って来易いように笑顔で。
扉が閉まる直前、今までずっと無表情だったその顔が、わずかに笑っているように、見えた。

唖然としている内に扉は閉まり、何度となく聞いた稼動音が鼓膜を静かに震わす。
その顔を忘れないように目を閉じてしっかりと記憶する。
さてカレンと皆にどう説明しようかと、とても難しい課題について考えた。




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