私には妻がいる。とても綺麗で知的で、家族思いで優しくて気さくで万能な人だ。
そしてそんな妻との間には、これまた彼女に似て可愛らしく天使のような娘が生まれた。
妻とおなじ栗色の髪を腰まで伸ばし、身を翻すたびに踊っている様は愛らしい。
娘の顔見たさに残業もせず定時で上がりダッシュで帰ってくる日々。
ドアを開ければ音を聞きつけた娘が走ってきて「パパおかえり!」なんて言う。
その笑顔ときたらもう。疲れなんてどこかに吹き飛んでしまう。
毎日娘の成長を見守ったり、妻の手料理を食べたり。
いわゆる幸せの絶頂というやつだ。

さらに両親と一緒に住んでいるので、家の中はとても賑やかだ。
世間では嫁姑戦争なんてものが問題になっているようだが、それは都市伝説だと
信じ込むことができるほど妻と母の仲はいい。
一緒に料理を作っているところもよく見かけるし、娘の世話や家事も分担している。
ショッピングにもよく出掛けているようだ。
私の母は昔からふくよかな体系をしており、その見た目に合う大らかで快活な人だ。
編み物のスピードも尋常じゃない。以前開催された編み物の大会で優勝もしている。
その作品を売りに出しているわけでもないので、そんなに早く編まなくても誰も待ってないよと
水をさしてみたのだが、「世界が私を待っている」と言い切った。
そして父だ。父はそれなりに大きな企業で管理職をしている。
目に入れても痛くないという様に娘を溺愛している所を見ていると、こんな人が管理職で
良いのかと心配になってしまうが、そこが良いらしい。会社での評判も良いようなのだ。
私は家族に恵まれていると最近よく実感している。
この世界を守るために自分は生きているのだ、と大きなことを言っても違和感を感じない。


しかしそんな幸せな生活も、ある出来事をきっかけに崩れてしまった。

娘が突然倒れたのだ。何の兆候もなく。
妻も自分も混乱し、父の知り合いである名医に見せても原因がわからない。
様々な検査を試みたがすべての結果は「異常なし」だった。
この異常な事態に「異常なし」とは何だと怒りと憤りが混ざり合い、全身を駆け巡った。
医師の調査や処置、私たちの努力虚しく、娘が目を覚ますことはとうとうなかった。
私が守ってきた世界は、突然闇の中へと放り出されたのである。
それは想像を絶するほどの絶望であった。どこへ手を伸ばしていいのかも分からない暗闇だった。

水や食料、生きるために必要な栄養分を一切必要としない病気が他地でも発生していないかと、
独自に調べてみたがそのような事例は1件たりとも見つからなかった。
原因不明、である。
妻は憔悴し、母は泣き通し、父は手掛かりを探して疲労しきっていた。
家の地盤は家族の涙で脆くなり、傾いて倒れてしまいそうであった。


そんな状態も半年近く続けば、家族は落ち込みながらも、自分のできることをやろうと
持ち直すことができ始めていた。そんな時だった。
父が外からこの地を訪れてきたと言う青年を連れてきたのは。
灰色の賢そうな犬を連れた、まだ若い旅の薬師であった。
纏う空気はその髪と目のように黒く、他人を寄せ付けない不思議な雰囲気を醸し出している。
彼の周りに見えない壁が隔たりとして存在し、それらの側面に先鋭な突起物があるかのように。
ともすればそれは、殺意や、猛禽類が獲物に対して行う威嚇のような。
そんな本能的な恐怖を感じてしまうような青年ではあるが、しかしよくよく見るとその目には森の中の
湖のような静謐さが浮かんでいる。敵意も感じられない。
そのアンバランスさに 呆気にとられているうちに父と青年は娘の部屋へと入り込み、扉が閉められてしまった。
何だったんだろう、と疑問に思うも、父の行動は突発的でも必ず意味がある。
長年一緒に暮らしてきて、父の背は大きいと子供の頃からそれなりに尊敬しているのだ。
ここは任せようと、邪魔にならないようリビングへと引っ込んだ。

それから数十分。
落ち込んだ父と、無表情ながらも何かを考えているように宙を見つめている青年が部屋から出てきた。

「ありがとう、話をすることが出来ただけでも心強い」

父が苦笑いにも空元気にも取れる笑顔で礼を言い、青年に頭を下げた。
何の話かは分からないが、あの青年は娘に対して対処法を考えたか、父の相談に乗ってくれたようだ。
父が顔を上がるのと同時、青年は手持ちの袋の中から、ある一束の草を取りだした。

「これを煎じてあの子に飲ませてください。あるいは効果があるかも知れません」

見た目と同様、落ち着いた声色とともに差し出された草を、父は躊躇いがちながらも受け取った。
自分にできることはこれしかないと言い残し、青年は犬を連れて出ていった。
それから大急ぎでその草を煎じ、娘へと飲ませてみた。
するとどうだろう。
今までは辛そうに眉を寄せていた顔が、あっという間に穏やかになったのだ。
まるでただ眠っているかのように、すぐにでも目を覚ますかのように。
喜びに沸き立ったが、やはり翌日になっても娘は目を覚まさなかった。
しかしこんな穏やかな娘の顔を見るのも久しぶりである。
一言礼を言おうと、父と手分けして、あの薬師の青年を探し回ってみたが、
残念なことに彼はもう街をでた後だった。


娘が安らかに眠っているように感じられてからは、私も元気が出てきていた。
仕事の帰りにふらりとおもちゃ屋へ寄れば、ふらりとぬいぐるみを買って帰る。
その度に「まったくもう」と妻に笑いながら怒られ、娘の部屋に他の人形と並べて置く。
父も同じようなことを繰り返していたから、娘の部屋はとても賑やかになった。
娘のいない食卓はやはり心に開いた穴のように風通しが良くなってしまったが、
以前のようにどん底気分にはならなかった。
少しずつ、家の中には昔の明るかった雰囲気が取り戻されつつあったのだ。


事件が起きたのはそれからまた半年後、娘が眠り始めてからもうすぐ1年が経とうとしていた時だった。
父が行方不明になったのだ。
娘は安らかに眠りながらも、日に日に顔色が悪くなっていくのを、父は思い詰めたような表情で見つめていた。
自分たちの知りえない何かを父は知っている。
そう感じてはいたが、問いただすことも憚られた。
とにかく自分にできることをして、見守っていようと思っていた矢先に起きたのだ。
やはり声をかけて相談に乗るべきだったと後悔したが、後の祭りである。

隣人や親戚に声を掛けて、2日間総出で父を探した。
しかし街の中にはいない。隣町の知り合いにも探してもらったが、見つからない。
そうなると後は、この街の傍らに存在している森の中しか考えられない。
この森は霧が濃く、安易に踏み込めばたちまち道に迷うと小さな頃から注意されてきた。
噂ではあの"流星街"に続くともされている。
日も落ちて辺りは暗くなってきている。探すのであれば明朝か。
そんな声も聞こえてきたが、そんな悠長なことは言っていられないと、踏み込む決心をした。
周りに止められたが、家族を失いたくないという思いが私を突き動かしているのである。
他人の言葉など、フィルターにかけられ、どこか遠くのお祭り騒ぎのように聞こえた。

街灯の下から覗き込む森は、どこまでも続いているのではないか、
もう戻って来れないのではないかと不安を煽るように暗い口を開けて佇んでいる。
嬉しいことに、街の人間数人が自分のこの無謀な行動に付いて来てくれると名乗り出てくれた。
その優しさに触れて、弱気な考えを追い払う。
各々の手には懐中電灯が握られ、そろそろ出発の時である。
もう1度これから踏み込もうとしている森を見定めるべく、その大口を振り返った時だった。

森の入り口に、子供と犬と、そしてぐったりとした父がいたのだ。



父はすぐに街の病院へと搬送され、手当てを受けた。
幸いにも衰弱しているだけで外傷はなく、命に別状はないらしい。
父のことはとりあえず解決したが、新たな問題が浮上した。あの子供だ。
森の中から現れたあの子は、街の人間に危険視されていた。
流星街へ続くと言われるあの森から、得体の知れない子供が出てきたのだ。
気持ちは分からなくもない。
しかしその子がいなければ父は森の中で死んでいたかもしれないのだ。
私にとっては危険だとされる流星街出身の子供であろうが、恩人なのだ。
無下に扱うなど、到底できるはずもない。
それに。
それにこの子はあの時の薬師を彷彿とさせる。
犬を連れているからとか、黒髪黒目だからとか、そんなものではない。
雰囲気が似ているのだ。纏っている空気が。それに敵意を持たない平淡な目。
あの時しっかりとしたお礼も言えず、見送ってしまったことに未だ心残りがあった。
この子にその時の感情を押し付けるなど的違いも良いところだが、それでも後悔はしたくないのだ。
お礼ができる時に、できるだけのお礼がしたい。それが例え子供相手であろうとも。

幸いなことに、子供は無表情で無口ながらも妻や母に気に入られていた。
娘と重ね合わせているのかもしれないが、同一とは見ていないだろう、微妙な間を持って。
可哀想なくらいぼろぼろだった姿を見かねて、妻は子供に風呂へ入らせた。
頭を下げて素直にお風呂へ向かった子供に、少なからず驚いた。
誰であろうと恩人にはお礼がしたい、そんなことを思っていても、やはり私も偏見があったようだ。
あの子は流星街から来た子供で、普通の子とは違うのだと。
でも違った。
あの子は普通の子と同じだったのだ。
喋らないのは何か理由があるのだろう。しかし喋らない代わりに態度で示す。
あの子は私が思っていたよりも、ただの子供なのかもしれない。
妻も同じ気持ちだったのだろう、目が合って、お互い苦笑いしながら反省した。

頬を上気させながらも、なぜかどんよりとした空気を纏って出てきたその子は、娘のパジャマを着ていた。
何だか人魂が見える、とまじまじ見ていると、母が嬉しそうに子供に駆け寄った。
今までずっと大人しくしていた黒い犬も子供へと近づく。
おそらく飼い犬なのだろうが、躾が驚くほどきちんとしてあった。
リビングでも盲導犬のように大人しく座っており、子供が帰ってくるのをただ待っていた。
頭を撫でても嫌がる素振りも見せず、身を任せてくる。
子供と犬の攻防戦がなんとなく見てとれた時、黒い犬のほうがどこかへ向かった。
子供もそれに続いていく。母が呼び止めたが、聞こえなかったようで、廊下の奥に吸い込まれていった。
気になって追いかけていくと、娘の部屋のドアが開いていた。
入ってみると、ベッドの前で黒い犬と子供が立っているのが確認できた。視線は娘に注がれている。
気配に気付いたのか、子供が振り返った。

「もうすぐ、1年になるんだ」

頭を撫でながら、涙をこらえながら伝えた。
子供は同様を微塵もみせず、ただ私に視線を投げかけている。
もしかしたら、この子なら娘の話し相手になってくれるかもしれない。
会話など無理なことは重々承知していたが、それでも四六時中ずっとこの部屋にいるのだ。
母や妻が訪れるといっても、一日の大半は一人ぼっち。できることなら、寂しい思いをさせたくない。
試しに、娘の話し相手になってくれないかと聞いてみると、あっさりと頷いた。
物事に執着しないのだろうかと、少しは怪訝な顔や戸惑った表情を見せるかと思っていた読みが
ものの見事に打ち砕かれた。感情はあるのだろうか。そう思ってしまう。
リビングから椅子を持ってきて、ベッドの横に置く。
素直にそこへと腰を下ろした少女の隣に、これまた素直に腰を下ろした黒い犬。
じっと動かず娘のことを見ている。
娘を頼むと言いそうになったが、それは違う気がして口を噤んだ。何を頼むと言うのだろう。
けっきょく何も言えず、最後に一度だけ振り返って扉を閉めた。
ただ娘に友達ができたような喜びと、どうか娘を気に入ってくれるようにと願いを込めて。


翌日、朝食を終えた後にその子供が私へと何かを差し出した。
自分から何かを積極的にやるような性格ではないと、短い時間で解釈していたものだから、
ひどく驚いた。無表情でも、何かを考えているのだ。そんな当たり前のことを思った。
固まっている私を根気よく待っている子供の目は、無機質で乾いた印象を与えながらも、
年相応の純真さが含まれている。じっと見つめられると、汚い部分を見透かされそうだ。
なんだか耐えられなくなって、視線を逸らす。
それと同時にずっと差し出されたままだった紙を受け取った。
子供にしては綺麗な字で、なんとも不思議な問が書かれていた。
真意を読み取れないながらも、西暦を答える。ついでにカレンダーを手渡した。
カレンダーを見つめたあと、一瞬、なにかを考えるように視線が右下へと移ったが、
すぐに持ち直したのかまた紙に何かを書きだした。それをまた同じように渡される。
いったい何なんだろう、と疑問も思いながらも再び紙に視線を落とすと、そこには娘の名前を
尋ねる文が連ねてあった。

あまりにも驚いて、少し、いや、気分的には数時間止まっていた気分だ。
突然娘のことを問われて、走馬灯のように昔の思い出が目の裏を駆け抜ける。
娘が着ていた服も、好きだった食べ物も、鈴が鳴るような声だってこんなに鮮明に思い出せるのに。
カレンはもう、目を覚まさないんじゃないか。
そう 心のどこかに湧き上がっていた一欠けらの諦めを、子供に見透かされたかのようだった。
握り潰されそうな痛みが胸の辺りを襲ったが、それよりも娘に興味を持ってくれたことが何よりも嬉しかった。

「カレン、だよ。あの子の名前は、カレンだ」

ゆっくりと視線を合わせ、ゆっくりとその名前を紡いだ。
妻と一緒に考えた、愛娘の名前だ。



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